平塚静は先生をする
「おきて、八幡」
それが陽乃の声だと認識するよりも先に、八幡の身体は跳ね上がった。瞬時に意識も覚醒する。陽乃に対する忠誠心などではない。意識がない時に陽乃が近くにいる。そんな恐ろしい事態を許せないだけだった。
時計を見る。午前二時。深夜も深夜。子供はもちろん、大人だって普通ならば皆寝ている時間だ。寝ているところを起こされた人間の当然の反応として、相手が陽乃であるにも関わらず八幡は胡乱な目を向けた。目つきの悪さには定評がある。気の弱い、特に女子であれば後退るくらいの迫力があると八幡は経験から知っていたが、陽乃は八幡の顔が見えていないかのような調子で話を進めた。
「飛び起きたねー。えらいえらい。犬っぽさが染み付いてきたね、八幡」
「こんな時間に何か御用ですか?」
「静ちゃんのとこ、遊びにいかない?」
ふー、と八幡は陽乃が聞き逃したりしないように、大きく溜息を漏らした。
「今からですか?」
「今じゃなきゃ意味がないの。ほら、こういう時のガールズトークって定番じゃない?」
「俺は女じゃありませんし先生もガールって年じゃありませんし、そもそも定番とかそういうのとは無縁に生きてきた俺が、そんなのに関わったことがあると思いますか?」
「全然思わない。だから誘ってるんじゃない。八幡だって、全く興味がない訳じゃないでしょ?」
ずるい聞き方をする。八幡は苦笑した。
全くないかと言われれば、答えはNOにならざるを得ない。できれば係わり合いになりたくはないが、見たり聞いたりできるというのなら、男子の一人として聞いてみたいと思わなくはない。ただ、何かを犠牲にしてまでは見たいとは思わない。比企谷八幡は男子にしては消極的な感性を持っているという、ただそれだけのことだ。
「ですが――」
「八幡」
それでもなお、言い訳を並べようとした八幡は、瞬間的に感じた肌寒さに、思わず口を閉じた。
八幡の正面で陽乃が笑っている。薄闇の中、それでもなお比企谷八幡が見とれてしまうくらいに美しいその笑顔は、見ている人間をぞっとさせた。
雪ノ下陽乃は笑顔で人を殺すことができる。これは、そういう時の、そういうための笑みだった。
「私が行こうって言ってるの。私が、行こうって、言ってるの。大事なことだから二回言ったよ。賢い良い子の私の八幡、貴方はどうしたい?」
「地獄の果てまでお供します」
渋面を押し殺し、八幡は陽乃に頭を垂れた。陽乃は笑みの種類を変え、満足そうに頷いた。肌寒さが消えていく。一瞬で氷点下まで下がった機嫌は、同じくらいの唐突さで平温を取り戻した。
「じゃあ行こう。解ってると思うけど静かにね。できれば声も出さないでくれると助かるけど……八幡、ハンドサインって解る? サバイバルゲームとかで使ってるらしいけど」
八幡は無言で、右手を『止まれ』『行け』『撃て』の順に切り替えた。一緒に遊ぶ相手もいないのに、一通り覚えてしまった。悲しい過去の遺産である。
自分の犬が思っていたよりも使えることを知った陽乃は、指でOKサインを出しついてこいと視線で合図する。陽乃の背中に、八幡は黙ってついていった。
八幡の部屋には、外から『のみ』鍵がかかるようになっている。管理人は男性とは言え、女二人の中に若い男が一人。大人の静はともかく、雪ノ下の大事な娘である陽乃がいる環境で、深夜、男を自由にさせるのは気が引けたのだろう。
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