ハーメルン
アタランテを呼んだ男の聖杯大戦
前夜

 かつ、かつ、と踵を床に打ちつける音が響く。

「お、お待たせしました」

「ああ?」

 椅子に座る男がサングラス越しに睨め付けると、机に紅茶を置いた店員はびくりと震え、「ごゆっくり……」と一礼を残してそそくさ立ち去った。

「チッ」

 男は舌打ちをひとつ。苛々は収まらず、何度も床に靴をぶつける。
 髪を掻き毟り、手の甲を覗きこむ。

「何で出ねェんだよ……」

 その剣呑な雰囲気に、絡まれては堪らないと、周囲の客は次々退店していく。「いい加減出てってくれないかなあ……」と遠巻きに様子を窺っていた店員が呟いた。

「ったく」

 やがて彼は首をふると、紅茶をぐいと飲み干した。

「支払い! ここに置いてくからな!」

 硬貨を机上に叩き付け、肩をいからせ店を出て行く。

 誰ともなしにほっと安堵の息を吐く店内。
 カップを下げようと机に近づいた店員は眉をひそめた。

「おいおい、マジかよ……」

 机の上には、男の忘れ物と思われる茶鞄が置き去りにされていた。


          #


「はぁ、疲れた……」

 ここはルーマニアの都市――シギショアラ。未だ中世ヨーロッパの面影を残す観光地である。
 石畳の大通りをとぼとぼ歩きながら、アルは盛大な溜息を吐いた。店員の服装のまま飛び出してきたので、道行く人々の視線が少々痛い。

 忘れ物に気づいた後、すぐに鞄を引っ掴み、店長に一言告げて店を出たものの、男の行方は杳として知れなかった。風貌からして観光客だろうから、鞄なしではさぞ困るだろうと思うのだが……。

「まあ忘れ物に気づいたら取りに戻って来るだろ」

 言い訳がましく呟いて、アルは店に戻ることにした。辺りは夕焼けに染まり、間もなく夜の帳が降りようとしていた。

 カフェに戻ると、既に客の姿はなく、店長が一人帰りを待っていた。

「すいません、閉店に間に合わなくて」

「結局お客さんは見付からないまま?」アルが持つ鞄に目を留め、店長が白い口ひげを撫でた。「ひとまず今日のところはウチに置いておこうか。明日になっても来なかったら、警察に持って行こう」

「はあ、そうですね……」

 俺が走り回ったのは結局何だったのか、と肩を落とす。

「じゃあ戸締りをよろしく」

「はい」

 店長を見送って、店の掃除に取り掛かる。
 実のところ、アルはこの店に居候している身分であった。

 そもそもアルは自分の名を憶えていない。記憶喪失の状態で、このシギショアラをうろついていたところを、幸運にも店長に拾われたのである。
 暇を見つけては警察や大使館を巡っているのだが、何が悪いのかまともに取り合ってももらえず、逆に疑われそうになったところを逃げかえるという始末であった。

 一通りの掃除を終え、アルは適当な椅子に座る。好きに飲み食いして良いと言われてはいるものの、流石に気が引けて、夕食は質素なものだった。

「にしても……」

 忘れ物の鞄を見る。外見の襤褸さに比べ、やけに重い鞄だった。

 ごくり、と唾を飲む。

「ちょっとくらい中を見ても……」

[1]次 最初 最後 [5]目次 [3]栞
現在:1/3

[6]トップ/[8]マイページ
小説検索/ランキング
利用規約/FAQ/運営情報
取扱説明書/プライバシーポリシー
※下部メニューはPC版へのリンク
携帯アクセス解析