Rotten Apple
森。
そこに立っていた。
緑の樹々が、陽を透かしている。風に葉が踊り、大地へ描かれた光の紋様は揺動する。
健やかに……密やかに……。
「ここは――」
見たことのない場所。
その時アルはようやく自分を自覚し、同時に夢を見ていることに気付いた。
眠る前の自分は、さて、何をしていたんだっけ?
無意識に歩を進めると、柔らかな草が足を受け止めた。
これは、自分が失った記憶の断片だろうか?
そうとでも考えなければ説明がつかない――この現実感に。
初めて見る場所にしては、真に迫りすぎている。肌を撫でる風も、眼を突き刺す陽射しも、鼻を衝く瑞々しい香りも、何もかも。
それにしても……心地好い場所だ。
爽快な気分で歩いていると。
「……?」
不意に、小さな人影が見えた。こんな場所に人……?
近づいてみると、やはり人間である。それも、本当に幼い女児だ。赤子といっても良いほどに。
「どうした?」
そう、声をかけようとして、声が出ないことに気付く。
これはどうしたことだろう。周囲から空気が失われてしまったように、振動が誰にも届かない。
仕方がないので、また彼女に歩み寄る。夢にしては随分と不便である。
近寄っても、その子はこちらを向かなかった。ただ一点を見つめ、懸命に腕を伸ばしている。
その先に、もう一人の人影。
背中の大きな男だった。彼はこの子に気付かぬのか、森を去って行くばかりで、一度も顧みようとしない。
「おい!」
当然、声は届かない。
慌てて子供の正面に回り込む。
その子は――。
悲しんでいなかった。
その両目からは涙が溢れ、恐怖に顔を歪めていたけれど、嘆いてはいない。
状況を理解できていないのではない。幼くも聡い相貌は、すべて判っている。
ただ、その伸ばした手が問うていた。
何故、と。
何故、ここに置いて行く、と。
なんと気丈な子だろう。絶望と喪失にその身を浸しながら、眸は衰えることなく、去る背中を射抜いている。
視線の先で、男はゆっくりこちらを向いた。
「女は、要らぬ」
その瞳は――凍るほど冷酷で。
低いよく通る声で、確実に彼女を否定した。
日が暮れてゆく。男の背中が見えなくなって、周囲の気温が下がり始めてなお、その子は悲しみの声ひとつ、淋しさの声ひとつ上げなかった。
だから、自分は泣けなかった。
傍から見て、これ以上の悲劇はないだろう、と感じたけれど。彼女が耐えていることに、第三者の自分が屈してはいけないと思ったから。
がさり――と茂みが揺れる。
反射的に視線をそちらへ向ける。その子も同じく顔を上げる。
姿を現したのは、黒々とした巨熊。
思わず天を仰いだ。
神はどれほどの苦難をこの子に与えるつもりだろう。
未だ、その熊をきっと睨み上げてみせる彼女は、どれほど剛いのだろう。
そして目が覚めた。
硬い床と、分厚い毛布と、丸まって眠る躰を感じる。
[9]前話 [1]次 最初 最後 [5]目次 [3]栞
現在:1/3
[6]トップ/[8]マイページ
小説検索/ランキング
利用規約/FAQ/運営情報
取扱説明書/プライバシーポリシー
※下部メニューはPC版へのリンク