6話 忘れない
ツーアウトランナー無し。それでも一塁側、あさひが丘高校アルプスから流れる演奏は衰えない。
重厚感のある「ルパン」に乗ってバッターも揚々とし、いかにも『打ってやろう』という気概で溢れている。
冷静に「チェンジアップ」のサインを出し、ミットを構える。
そこへ投じられた一級品のチェンジアップ。打ち気の強いバッターは体が前に流れ、スイングが泳ぐ。スリーストライク目のボールがミットに収まった。
「ストライク!バッターアウト!」
拍手が送られる。
「関内!ナイスピッチ!」
「中島もナイスリード!ホンマ今日の調子エグいわ俺!」
ピッチャーの調子は上々。特にチェンジアップが抜群で、あさひが丘高校打線は悉く空を切っている。
普段なら3人の投手による継投策がセオリーの横浜港洋学園だが、今日はもう少し先発に任せられるかもしれない。
キャッチャーマスクを上げ、汗を拭う。今日は一段と湿度が高い。
汗で送球に影響が出るかもしれない。アンダーシャツを長袖に変えるべきか。
ふと、グラウンドに意識を移す。目線の先では、磯野がマウンドをスパイクで均していた。
磯野には、絶対に負けるわけにはいかない。
5年前、俺と磯野を引き裂いた、突然の「転校騒動」
その理由は「父親の借金苦による夜逃げ」という、なんとも単純明快。ありがちで馬鹿らしい話だった。
自分も転校は3日前に知らされた急転直下の出来事、遠い親戚のいる神奈川へと移ることが決まった。それでも、次の学校へ移るためには転校の手続きを済ませなければいけない。これも事務的に特に何の問題もなく受理され、俺はこの学校の者でなくなることが決定的になった。
皆と別れて離れ離れになることは苦しかった。
別れが感傷的になればなるほど、後々からの「悲しい思い出」として思い出してしまいそうで、それが嫌で仕方が無かった。
ならば「突然いなくなれば、別れの悲しみも無いまま別れることができるんじゃないか」
中学一年の小さな脳ミソで必死に考え、そう思い立った俺は、転校の事をクラスの誰にも伝えないように担任に泣きついて頼んだ。
こうして俺は5年前のあの日、磯野の前から何の予告もなしに姿を消した。
神奈川に移ってからすぐに両親は離婚し、自分は母親の方に引き取られた。
勿論生活は楽ではない。母は朝から晩までパートで働きづめの生活で困窮を極めたが、自分をなんとか中学に通わせてくれて、野球まで続けさせてくれた。
女手一つで育ててくれる母親に、まだ中学生の自分ができる恩返しとは何か。
野球だ。
野球推薦で特待生に選ばれれば、授業料は免除。全国的な注目選手になれば、道具もスポーツメーカーから無償で提供して貰える。
「母親に楽をさせたい」
その一心でガムシャラに練習し、生活のために野球をやっているといっても過言ではなかった。あっという間に同級生を追い抜き、先輩を追い抜き、神奈川の中では右に出る者がいない程のキャッチャーになった。
そして無事、高校への特別推薦を勝ち取った。
選んだのは自宅から自転車で通える「横浜港洋学園」。1年生の秋にはレギュラー捕手の座を掴み、2年夏には4番に座った。俺の目論見どおり、その頃には大手スポーツメーカーから野球道具一式を無料で支給して貰え、高校生活をタダ同然で送ることが出来た。
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