第十話
勝負事であるがゆえ将棋界においても番狂わせは昔から起こってきた。60年以上前に創設された棋戦を起源に持ち現在序列一位のタイトル戦。頂点に座する竜王に挑む権利をあと一勝でひと月前まで15歳だった子供が得てしまう。これを大番狂わせと言わず何を言うのか。狭い世界の隅っこを除いて世間の認識はこうであった。
ベテランの意地を期待する者。若人の躍進を期待する者。若者を脅威と捉え警戒する者。その将棋に興味を持つ者。将棋界隈のみならず世間お茶の間まで巻き込んで三番勝負は注目を集めた。
朝10時前、関西将棋会館前に現れた八一に報道陣は身体を差し込み質問とマイクを突き付ける。常時フラッシュが光り押すな踏むなの怒号が飛び交った。
「九頭竜四段。今日勝てば竜王挑戦者となりますが今の心境は?」
「今朝は何を食べてきましたか?」
「姉弟子の空銀子女流二冠とは何か話されましたか?」
「時間ぎりぎりの登場ですが自信があるということでしょうか?」
「一所懸命に戦うだけです。残りは対局後にお答えします。」
八一はプロ入りから幾重もの似た事態に慣れたのか一言述べるとさっさとエレベーターに姿を消した。対局に遅刻させるわけにもいかず強く引き留める者はいない。彼等は後の仕事を対局室でおしくらまんじゅうをしているだろう同僚に任せ次の仕事場に散っていった。
対局室に一礼して入った八一は既に上座へ座っていた相手に向き直った。
「今日も勝たせてもらいます。」
「はは、これだから若い子は面白いんだ。負けないよ。」
「こちらこそ。」
対局者は八一が奨励会員の時から将棋を指す仲で先輩後輩関係にある。休日の早朝、棋士室に必ずいる二人の子供。彼等と頻繁に盤を挟んだ棋士の一人が東から移籍してきた射森文明八段であった。一級線のプロ棋士との対局経験が今の八一を構成する大きな役目を果たしたのは間違いない。
九頭竜は第1局の振り駒で相変わらず後手を引いたので今対局は射森が後手。そろそろ九頭竜は歩に好かれるのか後手を吸い寄せるのか興味が湧いてくる。
「定刻になりました。竜王戦挑戦者決定三番第2局は九頭竜先生の先手で始めてください。」
「「お願いします。」」
長く頭を下げた九頭竜はゆっくりと初手2六歩と指し射森は3四歩と返す。すると報道陣が退出し静かになった対局室に射森の言葉が響いた。
「かかって来い。」
「…。」
八一の返答は7六歩。お前こそかかって来いと戦型を射森に委ねた。射森はその無言の答えにそうでなくてはと笑みを浮かべて飛車を4筋に振る。更に角交換四間飛車かと持久戦に備える九頭竜を焦らして玉を動かす射森。対する九頭竜の玉も鏡合わせの様に追従する。
机の下での殴り合いは過熱。射森が3筋へ飛車を振り直して三間飛車へ移行、飛車を高位置に配すると九頭竜はすかさず角交換を行った。
「昼食のご注文は?」
「うな重を。」
「冷やし中華をお願いします。」
両者固く構えることなく相手の変化に対応せんと駒組みに余裕を持たせたまま午前は終了。ここまでの消費時間は両者きっかり一時間と後半の激しいぶつかり合いを予感させる均衡である。
昼休憩を挟んで盤上に互いの持ち駒を投入するも開戦はせず突き出た駒を狙う程度の小競り合いが続く。その間にも九頭竜は角を囲いに取り込み射森は銀冠で守りをより強固にする。
[9]前話 [1]次 最初 最後 [5]目次 [3]栞
現在:1/2
[6]トップ/[8]マイページ
小説検索/ランキング
利用規約/FAQ/運営情報
取扱説明書/プライバシーポリシー
※下部メニューはPC版へのリンク