第十一話
夜叉神邸の広い庭園を一望できる縁側。真夏とは思えない心地よい風が吹き抜けるそこで八一は天衣に稽古をつけていた。春から始まったそれはどんなに棋戦が立て込んでも週2回を守って行われている。
「ふん、七段くらいで良い気にならないことね」
「未来の弟子は棋界の頂点をお望みか」
パチンタンッ、ぴたんタン。駒と時計を打つ音が風に流され消える。盤上では過去と現在の八一が向かい合っている。ここ数ヵ月で天衣は八一から棋譜に乗せなかった術を吸収し続けていた。そこには八一が一門以外に見せることを拒む深層まで含まれる。
「貴方が自分で言い出したことでしょ。ボケたの?」
「そうだな」
バチッ。十数手の後八一の銀が天衣の玉を追い詰めた。主な逃げ場は金が塞ぎ龍が銀をカバーしている。一目見て分かる詰みの形だがそこまで投げずに続ける精神を初対面から八一はかっていた。自分の将棋を教えるに根幹となる一柱がそれであるからだ。
「ま、け、ま、し、た!」
「誰かに負ける度にそれをするのか?」
「貴方だけよ」
気の強さ、負けず嫌いも勝負師としていい要素なのだがと八一は頬をつく。明らかにこの子は挑発、揺さぶりに弱く見えるからだ。もっと言えばそれを含めた対人経験、そこからくる揺るがぬ精神の不足。受け師としては致命的な弱点である。
まず最低限の支柱を叩きこんで後は大阪で鍛えると変化を教える為に駒へ手を伸ばした。
「ねえ、駒の指し方を教えてよ」
「ん…ああ、音の出し方か?確かに此方の気まで抜けそうな音だが」
「うるさい。早く教えなさい」
「人によって違う」
「この際貴方のやり方で良いわよ」
キリ良く感想戦も終わりどうしたものかと考えていたところ天衣が言ってきた。稽古時間ももう直ぐ終わるのでまあいいかと普段行う行為を言葉におこす。しかしどうも感覚の部分を上手く口に出来ない。
「持ち上げ方はそれでいい。次に親指を使いながら人差し指を裏面に持っていく。最後に中指と人差し指で駒を挟み盤に打ち下ろす」
「??」
ぴたん。ペタン。ぺし。
「…今は指し方よりも覚えることがあるだろう。数をこなせばそのうち出来る」
「ちょっと、投げないでよ!それでも将棋の先生なの!?」
無意識に行うことをどう説明しろと言うのだ。立ち上がって天衣の右隣に移動する。
「手を借りるぞ」
「え」
「人差し指を素早く抜くんだ。狙いはマスのど真ん中。多少ずれてもしれっと直せ」
小さな手に自分の手を重ね狙いのマスに誘導する。
パチンッ。
「時間だな。次は順位戦があるから5日後だ」
「…竜王戦にかまけて降級点をもらわないことね」
「無論だ」
「九頭竜先生。本日もありがとうございました。晶お送りしなさい」
パチンッパチンッと響く音を背に長い廊下を歩く。前を行く黒スーツ姿の女性は天衣のお付の女性である。19歳にして会社勤めの立派な社会人だそうだ。いつも大阪まで送り迎えをしてくれる為少し話す間柄となっている。
彼女は車を湾岸幹線道路に乗せると丁寧な運転をしながら話しかけてきた。
「お嬢様は最近明るくなられた。先生のお蔭だ」
「自分の勝手で待たせる酷い奴ですよ」
「先生の時間を貰っているのはこちらだ。それも下手な師弟関係以上にな」
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