第9話『望郷の旅』
漆を塗りたくったような暗闇を壁伝いに歩く。その靄がかった視界から読み取れる情報では、そこが何処なのか、自らの意思に反して歩き続ける体が何を目的としているのかは分からない。
夢を見ている感覚。というのは正確ではないかもしれない。夢とは大抵、睡眠から目覚めた直後に気づくものだ。だというのに、自分には明確な意識がある。
恐らく、これは自分自身の記憶を覗いている感覚と呼ぶのが正確だ。このような場所に心当たりは全くないが、そうに違いない。
しばらく歩き続けたようだが、相変わらず視界は不明瞭だ。そもそも、そこは室内なのか、屋外なのかすらはっきりと分からない。
いつまで、このままの状態でいればいいのか。いい加減、何かしらの変化があってもいいはずだ。
そんな考えに呼応するように、壁を伝っていた手が、ひんやりとした冷たい金属に触れた。
記憶の中の自分はそれを通り過ぎずに立ち止まって、ポケットから懐中電灯を取り出した。
スイッチを探すのに手間取りながらも明かりを点ける。電池が切れかかっているのか、頼りの無い細々としたその光は、分厚い鉄の扉を照らし出した。
その鉄の扉を一言で簡潔に表すのならば、排他的、という印象だ。何重にもかけられた南京錠が、その印象に拍車をかけている。
この扉を設置した人物は相当な秘密主義なのだろう。それほどまでに見られたくないものが、この扉の向こうにはあるらしい。入ることはできそうにない。
だが、自分はそれを見越していたようだ。鍵束を取り出して、南京錠を時間をかけながら取り外していく。
やがて、鎖が床に落ちる音とともに、全ての南京錠が開けられた。
恐る恐る、といった手つきで自分は扉の取っ手に触れた。心なしか、手から伝わる金属の感触が、氷柱のように突き刺さる冷たさに変貌した錯覚に陥る。
扉自体が意思を持っていて、開かれることを拒んでいるかのようだ。
肩を使って重い扉に体重を乗せて開く。錆びついた蝶番が悲鳴染みた軋みを上げた。
ようやく開かれた扉の先を懐中電灯で照らす。その光の先には、地下へと続く石造りの階段があった。
石で造られているというのに、まるで、巨大な生物の体内へと繋がる口腔のような階段が。
何故かは分からない。しかし、ここから先を見てしまえば、取り返しがつかなくなる気がした。
自分はそんな気配を敏感に感じ取ったのか、懐中電灯を持つ右手が震える。そんな右手を空いていた左手で押さえた。だが、そうしても震えが伝播するだけだった。
不意に肩を掴まれる。咄嗟に振り向くのと同時のタイミングだった。意識が、紫色の瞳に刈り取られたのは。
○○○
「う、うう〜、桜ちゃん…。あと一時間だけ…。まだまだ寝れるって…」
身じろぎをして布団を被る。真司が夜更かしをして、寝坊した日はいつも桜が起こしに来る。だが、それも無意味な抵抗だ。
桜はどんな技術を持っているのか、いとも容易く真司の隙をついて、この温もりに満ちた布団を引き剥がすのだからなんとも不思議だ。
そして、桜の優しい笑顔と外の冷たい空気に叩き起こされるまでが基本的な流れである。
「…………ん?」
しかし、いつまで経っても布団を引き剥がされる事も無ければ、声をかけられる事も無い。
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