17話 大正時代③:日鉄財閥(2)
大正に入り、日本鉄道興業は2つの事に注力する様になった。それは、鉄道会社への出資と既存事業の拡大強化である。
___________________________________________
時代が明治から大正に移る前後、日本全国では鉄道や軌道の免許を取得する事がブームとなった。詳しい事は前に述べた為省略するが、このブームによって鉄道会社が多数設立され、出資先には事欠かなかった。この中で最大の出資先が、関東の中央軽便電気鉄道だった。
中央軽便電気鉄道、武州鉄道と言った方が分かりやすいだろうか。史実であれば、1910年11月に中央軽便電鉄名義で免許を申請、その後は資金難や東京側のターミナルの場所で揉めるなどのトラブルがあり、1924年に蓮田~神根間が開業したものの、最後まで東京側の延伸が叶わず、利用客の低迷や銀行の貸し剥がしなどによって1938年9月に廃止となった。
この世界では、日鉄が出資した事で資金の目処が付いた事で史実よりも2年早く開業し、加えて1927年に赤羽まで開業させた。ただし、この赤羽は国鉄の赤羽駅では無く、王子電気軌道(後の都営荒川線など)の岩淵町(現在の赤羽岩淵駅)の事である。これは、武州鉄道と王子電軌が共に京成系の会社である事と関係している。
これにより、東京側の拠点を有した事で武州鉄道は廃止されなかった。しかし、王子電軌との接続が達成されたが、武州鉄道の改軌・電化は行われず、戦時統合によって東武に統合された後にようやく電化が始まる事となる(東武に買収後、赤羽線と改称)。
武州鉄道以外にも多くの会社に出資し、路線によっては傘下に収めた。出資の例では、温泉電軌(後の北陸鉄道加南線)へ出資し、史実では未完成となった粟津(恐らく粟津温泉)~小松間を完成させた。他にも、後の駿遠線を敷設する各社(藤相鉄道と中遠鉄道)に出資し静岡~浜松間の路線に転換させた。
傘下に収めた例では、神奈川県の平塚から大山へ延びる大山鉄道、同じく平塚から八王子へ延びる八平軽便鉄道の両社を買収し、1912年に「相模中央鉄道」として統合させた。
これらの活動が多く行われた事で日鉄の金融部は急速に拡大した。これにより、機械や電気などの事業部門と金融部門が一緒である事が不都合であるとされ、1916年に金融部が独立した。融資部門が「日本鉄道銀行」として、証券部門が「日鉄證券」としてそれぞれ独立した。
また、これらの活動は、免許が大量に交付される1920年以降、盛んに行われる事となる。
___________________________________________
鉄道向けの投資だけでなく、事業部門でも拡張を続けた。その中でも最大のものが、1915年に「日本興業」を買収し電気部に吸収した事と、1916年の大室財閥との提携である。
日本興業は、才賀電機商会を前身とする電気会社であり、創業者は「電気王」と呼ばれた才賀藤吉だった。才賀電機商会はその名前通り、地方の電力会社や日鉄と同じく地方の鉄道会社への投資を目的とした会社であった。その為、才賀電機は電機会社では無かったが、地方の電力会社への機材納入や技術支援のノウハウがあった。
当時、才賀電機は財務状況の不透明さが発覚し多くの不良債権を抱えていた事から、早急な再建案が求められた。史実では、懇意だった日本生命と北浜銀行(三和銀行の前身行の1つ)に出資を求めたが、日本生命の引き上げと北浜銀行の破綻が原因で倒産した。
[9]前話 [1]次 最初 最後 [5]目次 [3]栞
現在:1/2
[6]トップ/[8]マイページ
小説検索/ランキング
利用規約/FAQ/運営情報
取扱説明書/プライバシーポリシー
※下部メニューはPC版へのリンク