奴隷蛮行【3-2】
寒々しい集会の場に、この数十分でちっとも珍しくなくなったサイレンの音が近づいてくる。数人の警官が音の方角を見やると、一台のパトカーが数ブロック先で急カーブを切り、自分たちの方へ真っ直ぐ向かってくるのが見えた。荒々しい運転とハイビームの光芒から危険を察し、付近の警官が路肩へよける。その数秒後、セダンのパトカーは急ブレーキに尻を振り乱して濡れた路面を滑り、直前まで新米巡査が立っていた場所を通過し、別のパトカーに車体の助手席側が接触する寸前で制動を果たした。長大にのたうつブレーキ痕が、路面と先発の警官らの鼓膜に刻まれていた。
無秩序なパトカーからのサイレンが止み、運転席から中年の制服警官が顔を覗かせる。自分が原因のどよめきを意に介さず、中年は顔面蒼白な新米警官を呼び寄せて情報を聞き出し、事が済むなり邪険に追い払った。それから駐車位置もそのままにドアを乱暴に押し開け、シートを支えに車外へ這い出た。中肉中背の男は雨除けに額へ手をかざしたが、大自然はその浅ましい試みを一笑に付した。抵抗むなしく濡れそぼる中年警官の顔に、折り重なる雨雲に劣らず折り重なった皺が彫り込まれていた。
アンブローズ・バグウェル主任巡査部長は、三日前に五十六歳の誕生日を迎えた。高校卒業と同時に警察官となり、現場一筋の三十余年を過ごした。若い頃に妻が「たわしちゃん」と愛でた毛根はすっかり後退し、僅かな最終防衛ラインには白いものが目立つ。肉体の限界を痛感しており、ここ数年で退職の単語がよぎらぬ日はなかった。朝は節々の痛みで目覚めるのが常で、肥満ぎみの自重をやっとで支えている。人生の折り返しもだいぶ過ぎ、辞書が謳う正義と社会の不条理に挟まれて磨耗する日々は、反吐の海に溺れる心地であった。実際問題、バグウェルはこの三日前に反吐と仲良くやっていたし、大本を辿れば、二年前から反吐の大海原で浮き沈みしていた。
アンブローズ・バグウェルの悪夢は今より二年前、母校の同窓会に出席した事に端を発している。会場に踏み込んだ直後、久しく再会した同輩と手を握り交わそうとして、バグウェルは血の気が引く心地を味わった。旧友は例外なく奥さんを同伴し、仲睦まじげに腕を組んでいた。周囲を見渡せば、単身での参加者はバグウェルの他になかった。
バグウェルの脂の乗った背筋を、冷たい滴が伝う。彼の不安に応えて、旧友は出会いしなに妻の所在を尋ねてきた。バグウェルはその都度「カミさんの都合が合わなかった」と自己弁護を重ね、級友とその妻は気の毒そうに眉根を寄せた。如何な馬鹿でも、五十を過ぎれば物事を嫌でも察する。彼らの声音に含められていたのは同情ではなく、自己中心的な旦那への蔑みであった。遠い過去には、花も恥じらうほど愛し合ったバグウェルとその妻であったが、今やその関係は寝室を別とするまでに冷えきっていた。
バグウェルは疎外感と劣等感、過去には同列であった友人との間に穿たれた涸れ川に打ち据えられ、ふらふらと会場を退出した。学生時代の思い出話に花を咲かせる参加者に、彼の消失に気付く者はいなかった。
バグウェルは当て所なく彷徨い、嫉妬に狂って独り飲みつぶれ、酒場の用心棒につまみ出された。路上で幼子のように泣き崩れる中年を、通行人が鼻白んで嘲った。衆目から顔を伏せて丸くなり、バグウェルは夜通し羞恥を噛み締めた。
翌朝、自らの吐瀉物で窒息しかけて跳ね起きたバグウェルは、霞む朝日に膝を折って両手を組み、妻への贖罪に余生を投じようと誓った。温かい家庭像への羨望が、バグウェルに再生の機を与えたのだ。それまで露とも顧みなかった家庭への帰属を、バグウェルの本心はは渇望していた。それに、ろくに出世せず、預貯金もない自分になびいてくれる女など、妻の他にいるはずもない。一度生じた憧憬に気付かぬ振りなど出来ず、その心根を急速に侵食した。
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