19話 『いきなよ』
――まるで、氷の泥に沈められているようだった。
何も見えず、息ができない。
度を越した恐怖と絶望だけが心を覆い、思考すらもままならない。
一体何が起こっているのか、あたしは何をされたのか。
……全部、分からない。理解も出来ない。
けれど、きっと碌でもない事になっているのは確かだと思う。
でなければ、こんなにも辛い筈がないだろう。こんなにも悲しく、そして痛い筈がないだろう。
……沈む。沈んでいくのだ、あたしは。
必死に手を伸ばし、泥から這い出ようと藻掻くけれど、指先は何処にもかからなかった。
ずぶずぶと、昏く寒い泥の底へと落ちていく。
そうして苦しむ内に、自分が自分で無くなっていくのが分かる。
あたしの中心、核とも言える部分が大きな痛みを訴えていて、そこから何かが生まれようとしているのだ。
それはきっと、とても嫌な事だ。
心底理解しているけれど、あたしにはどうしようもなかった。ただ首を振り、泣き喚くしか許されない。
「――! ――!」
誰かの名を、叫んだ。
それは両親。それは想い人。それは親友。それは……ちょっと嫌いだけど、大嫌いじゃないヤツ。
色々な人に助けを求め、叫んだけれど――当然、こんな所に来るヤツなんて誰も居ない。
あたしは一人、このまま孤独に消えていくしか無い。それが分かって、更に泣いた。
……ああ、ダメだ。痛みと苦しみは耐えきれない程大きくなり、自分の意識を保てない。
何も分からなくなった。
記憶、心、魂。全部が消えて、あたしは何者でも無くなるのだ。
そうして、生まれようとする何かは、あたしの胸に手を突き立てる。身体を引き裂き、外に出ようとしている。
……朧げな意識の中、必死に抑え込もうとするけど、やっぱり無理で。
あたしはみっともなく泣き叫びながら、呆気なくその最期を迎えた――。
『――――』
――寸前、冷たい泥が一斉に燃え上がった。
驚き慄く余裕も無かった。
その炎は恐怖や絶望、そして生まれようとしていた何かでさえ一切合切焼き払い、灼熱の渦に呑み込んだ。
当然、泥の中に沈んでいたあたしにそれを避ける術なんて無い。
訳も分からぬまま、踊り狂う劫炎に巻かれ――『上書き』を、されていくのだ。
自分が自分でなくなっていく……それは泥と同じだったけど、何故だかこっちはあまり不安はなかった。
……そんな中、炎の中に一つの人影を見た。
それは赤い髪を靡かせ、呆れたような、或いは己を恥じるような、そんな半眼となり。
涙と泥でぐちゃぐちゃになっている筈のあたしを見て、小さく笑う。
――そうして、意識が燃え尽きる間際。
ソイツが残したその言葉だけが、強く、深く――あたしの心に焼き付いた。
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