第01話 日常としての非日常
前方を駆ける隊が左右に分かれた向こう。薄い朝靄に揺れる曹孟徳の牙門旗を認め、田伯鉄は心の中で嗤う。それは強敵を目の前にした英傑のそれではなく、あくまでも自分の変わり様に対する自嘲だった。
“できないことをやろうとすべきではない”
今、まさに実行しようとしていることに対してかつての矜持がちらつくが、それは最早意味を成さない。
(やるしかない。もう、覚悟は決まってる)
一陣の風が吹き抜け、「曹」の一字が翻る。
その傍らに並ぶようにして立つのは、「丸に十字」の旗印。それはまるで“彼”の有り様を示しているかのようであった。
(出来れば直接戦いたくないなぁ)
自分よりはるかにイケメンの――それでいて嫌味を感じさせない青年に、束の間思いを馳せる。
男が彼と直接に対面したのは一度のみ。お互いの立場上、少ししか話したことはなかったが、気は合いそうであった。
(まぁ、それも当たり前の話か。自分と同じなんだから。……出来ることならもっと別の出会い方をしたかった。こんな血なまぐさい世界での敵味方なんかじゃなく、例えば大学の新歓コンパとか――)
「田将軍! この期に及んで余計なこと考えてるんじゃないでしょうね!」
左後方からの怒鳴り声に今度は顔に出して苦笑。
「まさかっ! そんな余裕があるわけ無いだろ!」
顔の向きはそのままに同じく怒鳴り声で返す。といっても、馬蹄と甲冑の音、兵たちの雄叫びでようやく普通に聞こえる有様ではあるが。
「ならいいんですがね」
すぐ横を並走する形をとった副将は胡散臭そうに目を細めた。
「貴方は絶望的に戦に向いてないので」
「なぁに『雄々しく、勇ましく、華麗に』だろ? “しんぷる”だよとても。やってやるさ」
手にした槍を握り直し、接近する戦列を兜の奥から見据える。
(……やっぱり前者二つは難しいな。せめて華麗さだけは……っと、そろそろか)
「田将軍! 威力射程、入ります! どうせ目測できてないでしょ!?」
「今言おうと思ってたんだよ……よしっ!」
似合っているとは言い難い金ピカの鎧を輝かせた男は、裏返り気味の大声で号令。時間差で銅鑼が鳴り響いた。
“同郷”の青年への思いやその他諸々の感傷を置き、男はさらに速力を上げる。その後方には風を受けてはためく田の旗印。
(いずれにしろここで終わりだ)
夜明けとともに「丸に十字」と「四角に十字」は相対す。
官渡の一大決戦は終幕を迎えようとしていた。
―・―・―・―・―
「だぁあ、完全に遅刻だっ」
男は鞄を小脇に抱え、駅に向かう道を小走りに急ぐ。
(やっぱ夜勤の代役なんて引き受けなきゃよかった。今夜の飲みは勘弁……してくれないよなぁ)
遅刻の罰に奢らされる自分が容易に想像できてげんなりする。
初夏の太陽の日差しはやたらに強く、寝不足でただでさえ少ない体力を容赦無く削っていく。上を向く気力もないが、色はきっと黄色に違いない。
走り過ぎざま、花火大会のチラシが電柱に張ってあるのが目に入る。
地元で行われるその花火大会は結構有名なもので、上京したての頃は「いつか彼女と一緒に……」などと考えたこともあった。大学生活二年目になってもその連れていく彼女がいないのは、本人にとって誠に遺憾なことである。
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