ハーメルン
悪の舞台
プロローグ

 男はポケットに煙草がまだ1本残っていた事に気が付き、それを口にくわえた。
 ライターはないかとさらにポケットをまさぐるが見当たらず、そのまま火のついていない煙草をくわえたまま屋内を歩いていく。
 煙草は、数年前に吸うのをやめていた。今着ている上着は、久しぶりに箪笥の奥から引っ張り出してきたものであり、まだ煙草を吸っていた、人並みの人間だったころの代物だ。

 嗜好品は、人を堕落させるための物である。
 依存性があるものは特にそうだ。

 それに満たされる快感を得るために金を払い、その金で上流階級は満ち足りた生活をする。
 堕落した貧民階級はその甘い蜜を得ることだけを考え、自分が搾取されている事にも気づかない。
 大人ぶりたかったからと、そんなくだらない理由で始めた煙草をやめたのは、そんなどうしようもない現実を思い出したからであった。
 当時はまっていたゲームをやめてしまったのも同じ理由だ。
 いや、あのゲームこそが元凶というべきか。





 幼いころ、両親を亡くした。
 社会の駒でしかなかった両親は、簡単に切り捨てられ死体すら回収されることはなかった。
 貧民階級の人命のなんと軽い事か。
 無理を承知で、両親が死んだ職場へと赴き、せめて遺品を回収するだけでもと懇願したが聞いてはもらえなかった。上の命令には逆らえないと、皆口々にそういった。
 当然だ。誰だって自分が一番大事だ。今ならばそれもよくわかるが、幼かったころの自分には世界が皆、自分の敵になってしまったかのように思えた。

 そこに、この辺りでは見ないような上等なスーツを纏った男が現れた。
 あの男の顔を、覚えている。
 年は20代後半といったところだろうか。整髪剤できっちり髪の毛を分け、顔は図鑑で見た蛙のようで、左目の下の泣き黒子が二つあった。
 いつも偉そうにしている社長が慌てて出てきて、年下のその男にぺこぺこと頭を下げていた。

 引き留める大人たちを掻い潜り、二人の前に立ち頭を下げて願い出た。
 どうか、この職場で死んだ両親の遺体を回収するために、一旦ラインを止めて欲しいと。
 すると、スーツの男はこう答えた。
 なぜ、そんな事をしなくてはいけないのかと。
 子供は答えた。こんなところではなく、両親をきちんとした場所で弔いたいからだと。
 男は笑ってこう返した。
 自分は、この工場の生産が滞っているので視察に来た。このまま、業績が振るわないようならばここを潰して新しい工場を建てる予定だ。働きアリが死んだからといってラインを止めるような工場ならば必要ない。即刻取り潰すことになるだろうと。
 その言葉に、社長は慌てふためき、そんな事は絶対にしない。今だってラインを止めずに生産を続けている。だから、どうか、どうかと地面に顔をこすりつけながら涙ながらに懇願した。
 その様子に戸惑う子供をあざ笑うかのようにこう告げる。

『お前の、何の利益にもならない望みを叶えればここに働いている者はみんな路頭に迷う事になるだろう。再就職が出来ず、飢えて死んでしまう者もいるだろう。それでも、君は、願いを叶えて欲しいというのかい?』

 周りの大人たちがこちらを睨んでいた。
 たまに遊んでくれた優しかったおじさんも、同じ目をしていた。
 言い返してやりたいのに、何も言葉が出なかった。

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