ハーメルン
『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』外伝:戦後の新線
関東新路線③:新都市高速鉄道
この路線は、常磐線及び京成筑波線の混雑緩和を目的に計画された。史実のつくばエクスプレスと同様の経緯だが、ルートが全く異なる。この路線のルートは、松戸から南流山・豊四季・稲戸井・牛久・阿見を経由して土浦に至る路線となる。
筑波方面は既に京成筑波線として存在している。史実のつくばエクスプレスと似たルートの為、計画されなかった。
その代わり、牛久~土浦で常磐線の東側を通り、鉄道空白地帯の解消と沿線の開発を目的としている。
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高度経済成長期以降、常磐線と筑波線の沿線にも宅地化の波が押し寄せた。これにより、沿線の松戸市や柏市、守谷市などで人口が急増した。
一方、人口の増加は輸送量の増加に繋がった。筑波線は京成による輸送力強化や設備強化が行われた事で対応出来たが、常磐線は多種多様な車輛・種別が通る事、営団千代田線との直通で沿線と拗れた事などから、今一つ進んでいなかった。
オイルショック後も沿線人口は増加し続けている一方、常磐線の輸送力は限界に近付きつつあった。その様な中で計画されたのが「新常磐線」構想である。
新常磐線は、常磐線沿線を起点とし(北千住か松戸と見られた)、流山・豊四季を経由して土浦に至る路線として計画された。常磐線の複々線では無く新線として計画された理由は、常磐線から離れた地域の開発も目的に含まれていた為である。整備主体は決まっていなかったが、常磐線のバイパスの為、国鉄と予定されていた。
1985年の運輸政策審議会答申第8号に新常磐線が組み込まれた。しかし、膨大な赤字を抱えている国鉄に整備する余裕が無い為、この時は計画だけとなった。
1987年4月1日の国鉄民営化でJRグループとして新たなスタートを切ったが、新常磐線の受け皿と目されていたJR東日本は消極的だった。発足したばかりの為、経営の安定の注力したかった事、未開発地域が多い事から利用者が少ないと見込んでいた事などが理由だった。
1991年、新常磐線計画は動き出した。この年に新常磐線の建設主体である「新都市高速鉄道」が設立された。出資者は沿線自治体と京成グループ(京成、関鉄など)が主となった。
設立された経緯は沿線開発や常磐線及び筑波線の混雑緩和もあるが、法整備が進んだ事で建設し易い環境が整えられた事もある。ライバルの京成グループが出資者に連ねているのは、少しでも影響力を持つ事で、ライバルを抑えようと考えたからである。
兎に角、新常磐線計画は急速に進展した。翌年には申請した東京~土浦の免許も認可され、営団から押上~松戸の免許の譲渡を受けた事で、営団との直通が行われる事も決定した。第1期線として押上~稲戸井、第2期線として秋葉原~新曳舟と稲戸井~土浦、第3期線として秋葉原~東京の整備とされたが、沿線自治体からの強い要望によって、第2期線を第1期線として繰り上げ、第3期線が第2期線に変更された。1993年に松戸で起工式が行われ、秋葉原・押上・松戸・豊四季の4か所で工事が開始した。
建設が始まったが、バブル終息後の不景気や沿線の地権者の反対、東京側の軟弱地盤などによって、工事の進捗は遅かった。当初の予定では2000年度には開業予定だったが、工事の遅れから不可能となり、1996年に2002年度開業に変更となった。工事の遅れは中々解消されず、極東危機による工事の停止もあり、1999年に更に延期が発表され2004年度開業とされた。
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