1話
『逃げ』とは悪いことだろうか? 僕はそう思わない。戦うことが手段の一つだと言うならば、逃げることも立派な手段の一つだからだ。けして退いてはいけない時というものは、確かにある。しかしそれ以外の局面であれば、僕は逃げる。多少の損を押してでも、争いを避けたいからだ。
「逃げるな貴様ぁぁぁ!!」
「逃げるに決まってるだろ! バーカバーカ! お腹空いてるならその辺の草でも食ってろバーカ! もひとつおまけにバーカ!」
「こっ、の…! 必ず食ろうてやるぞクソがぁぁ!」
争いが苦手──それは生来の性分であり、変える気も変えられる気もない気質である。とはいえただ逃げるのも腹が立つので、安全なところから煽るのもまた性分だ。それで争いごとが増えるなら意味ないじゃないかって? 仕方ないじゃないか、悔しいんだもの。こっちは逃げてやってるんだから、ちっぽけな自尊心を満たすくらい許されてしかるべきだ。
何から逃げてるかって? 『鬼』だよ、『鬼』。そんなものがいる筈ないなんていう突っ込みは聞き飽きた。僕も過去に生まれ変わるまでは、そんなの迷信だと思ってたさ。
なんの因果か明治時代なんかに生まれ変わっちゃってさ……もう大正に変わったけど。いやまあ、それはいいんだよ。問題は僕の体質である。何故かは知らんが、昔から化物をよく引き寄せるのだ。
更なる大問題としては、それが原因で捨てられたことだ。そして最大にして最高の問題は、その体質のせいで人里に身を寄せ辛いことである。文明開化の音がぜんぜん聞こえてこないんですけど。
「ぐうぅぅ! なぜ追いつけん…!」
「こちとら三才の頃からリアル鬼ごっこしてるんですぅー! ギリシャオリンピック出ようか考えたこともあるんですぅー!」
身分も金もないから無理だったけどな! それ以前に、当時六歳の子供が出れるわけなかったけども。しかし身体機能と肺活量、そして体力が人間離れしているのは幸せなのか不幸なのか。もしそれらが普通だったら、とっくの昔に死んでいたのは間違いない……が、この人生が幸せなのか不幸なのかは甚だ疑問である。
昔は男尊女卑の意識が強くて、風俗も乱れていた印象とかあるじゃん? 簡単に可愛い女の子とお近づきになれると思うじゃん? 意外とそんなことなかった。ぜんぜんそんなことなかった。
ついでに言うと鬼は夜に襲ってくるため、昼間は体力の回復に努める必要があるのだ。つまり僕は完膚なきまでに夜型人間であり、反して大正の人間は日の出てる内が主な活動時間だ。そんなとこだけイメージ通りにしなくていいんだよちくしょうめ。
「…! まずい、夜明けか──……っ!? しまっ…!」
朝日が顔を出し、ようやく命がけの鬼ごっこも終わりを告げる。日の出の時間が近くなると、さっきみたいに煽り散らかすのが基本である。鬼というのは、何故かは知らんが煽り耐性が非常に低いのだ。もちろん個人差はあるが、僕の目の前にいる鬼は見るからにそういう気質だ。
それを利用した地形的な罠を張ると、これが意外と有効なのだ。焦った彼が身を隠したのは、ぽつんと存在した大樹の影だ。というか、そこに行くしかないタイミングを図ってた訳だけど。実際問題、本気で逃げればあの程度の鬼を撒くのは訳もない。
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