第10話:11月(土)
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見える世界が違った。
いつも仕事で使うターミナル駅が、毎日苦しくて仕方のなかった通勤路が、今日はとても輝いて見える。雨は降りはじめていた。しかし、気分は晴れやかだった。
朝永は駅ターミナルの入り口の片隅で、人目につかぬようたたずんでいた。服装は正体を特定されないよう分厚い眼鏡をかけ、地味な色のフードコートを羽織る。季節柄風邪を引かないようマスクで顔を隠しても怪しまれない。スニーカーもこのために用意した中古品。撮影後はまとめて処分しなくてはならない。
デジカメはコートの胸ポケットにあり、レンズ用の穴を開けた特殊な細工をして外見からは見えないように施してあった。
予報ではこの土日ずっと雨傘が手放せないらしかった。昨日までなかった冷え込みに、道行く人は皆着込んでいる。こころなしか、駅前は人が少ないように見えた。この天候に気が滅入り、週末の外出を控えているのだろう。朝永は好都合かもしれないと感じた。
まだホームには上がらない。ホーム上の監視カメラに長く映るリスクを避け、最初は駅の改札前で待つ。ここなら人の流れを一手に把握できるからだ。
約束の日。果たして森野は来るだろうか。
八時半を過ぎるまで待ち、もし彼女が来ないなら引き上げるつもりでいた。おそらくこの日が最大のチャンスとなる予感があった。しかし一旦諦めても、それで彼女との接点がうしなわれるわけではない。後日また『撮影』のチャンスをうかがうだけだ。
朝永は時計を見た。針は八時を過ぎたことを示す。再び顔を上げた。そのとき雑踏の向こうからやってくる人物に目を見開いた。
森野夜だ。
その顔を見た瞬間、朝永に激しい衝動がわき立つ。あの電話は本当だった。
森野の服装は黒で統一された服装だった。黒のロングコートを羽織り、これもまた影のようなポーチを肩にかけている。黒衣の合間からのぞく素肌は病的に白い。季節の違いはあれど、まさにあの日出会った少女のままだった。
尾行を始める。ひそかにカメラのスイッチを押し、その姿をしっかりと収めつつ、後をつける。
森野の背中は無防備で、触れれば崩れてしまいそうだった。
用心してあたりに目を光らせ警戒を怠らない。電話相手の少年がどこかで監視している可能性もないとはいいきれない。
しかし少年の居場所を確認する手段はある。八時半、森野に連絡を取ることになっていたはずだった。その時辺りを見回し、電話をかける少年らしき人物がいないか探し出す。もし駅のホームにそれらしき人物がいなければ、彼が自分を見張っていないことを意味する。
あとは運を天にゆだねるだけだ。
森野のあとを追って二階のプラットホームに上がる。ホーム上の人はまばらだった。雨がホームの屋根を叩き、皆、空の具合を眺めているか、携帯に目を落としている。視線を他人に向けるものは少ない。好都合だった。
森野の姿を探す。ホーム中央部にはいない。後ろを振り向く。
……朝永は天に感謝した。
あの夏の日と同じように、彼女はホームの端に立った。そこはまさに、突き落とすのに絶好のポジションにほかならなかった。
置き物ひとつないベンチに腰掛ける。自分が約束の相手だと彼女に気づかれてはならない。素知らぬふりをして、その時を待つ。電車に遅れはないが、いつスピーカーから遅延連絡が来るかもわからない。祈るばかりだった。
腕時計を確認する。もうすぐ指定の時刻を迎える。本来なら森野に声をかけて携帯を返してもらう手はずとなっていた。しかし、携帯などいらない。欲しいのは表情だ。
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