#003 弟子入り
将棋を教えると、そう口にするのは簡単だ。相手が幼い子供であれば、実際に上達の助けとなるケースも多いだろう。だがその子が棋士を目指すと言うのなら、言葉の意味を吟味すべきだ。
将棋の世界における『棋士』とは、すなわち将棋を生業とする者たちの事であり、一般にプロと呼ばれる存在を指す。たとえば日本将棋連盟はアマチュア大会の参加者を『選手』と呼んでおり、プロと呼称を分けている。とはいえ将棋指し全般を棋士と呼ぶケースも多く、プロである事を強調するために『プロ棋士』という単語が使われる事も少なくない。
さらに話を掘り下げるならば、将棋には『女流棋士』と呼ばれる者たちも存在する。元来の棋士制度から分離して、新たに女性限定の制度として設けられたのが『女流』だ。参加可能な公式戦も棋士とは異なり、明確に別の存在として扱われている。
制度上は棋士となる条件に男女の違いはない。それでも女性用の枠組みが新たに作られたのは、そうしなければ十分な女性のプロを確保できなかったからだ。
「将棋を教えるのはいいとして、棋士になる、という意味は理解してる?」
「当然でしょ。だったらプロになる、と言い直しましょうか」
「女流プロ棋士、という道もあるわけだけど」
「私は『棋士』になる、と言ったはずよ」
芯の通った天衣の声音に、湊は腕を組んで頷いた。
将棋盤の向こうに座る少女は、大きな瞳を挑戦的に光らせて、睨むように見上げてくる。熱意は見て取れるが、その熱に浮かされた様子はないし、物を知らぬわけでもないだろう。
それでも、と彼は先の話に言葉を継いだ。
「今の将棋連盟が出来て七十年くらいになるけど、未だに『女性棋士』は一人も誕生していない。最も強い女流棋士が、最も弱い棋士にも劣るのが現状だ」
「……お父さまが言ったの。あなたが教えてくれるなら、棋士になるのも夢じゃないって」
薄紅の唇を尖らせて、プイと天衣が横を向く。
「信じさせてよ。がんばるから」
呟きが耳を打つ。その言葉が胸を打つ。熱情を、湊は呼気と共に吐き出した。
かつて考えた事がある。前世で、幼い頃から将棋を学ぶべきだったと。今世で、自分なら最強の棋士を育てられるのではないかと。そんな子供染みた願望を、胸に抱いた事がある。
だから押し付けてしまわないように、言い聞かせるのだ。他ならぬ自分自身に。
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