第19話 飯屋
「も、もう少しだけ待ってくれ。深呼吸、深呼吸するから……」
「このくだりもう三回目ですよ、ターニャ」
「これで最後だから!」
完全に駄々をこねる子どもであることは自覚していたが、それでも緊張には勝てない。店の引き戸から少し離れたところでターニャはヴィーシャの裾をつまんで引き留めていた。
思い返せば、この世界での人生においてターニャは大衆食堂を含む飯屋の類に行ったことがない。外で食事をとったのはせいぜい静かで落ち着いた軽食喫茶くらいだ。興味本位でビアホールを覗いたこともあるが、騒々しさと酒臭さに参って早々に退散した。
つまり、ターニャの華々しい飯屋デビューが近づいている。
「やればできるやればできるやればできる。……よし、前進だ」
「はい、行きましょう!」
店先のボードを確認する。今日のおすすめはフリカデッレ、肉団子だ。肉団子に外れはないだろうと判断したターニャは、フリカデッレのセットを注文すると決めた。今のうちに注文を頭の中で復唱していればつっかえることはないはずだ。
ヴィーシャが戸を引くと、店内から熱気と騒音があふれ出してきた。人ごみとはこんなものだったか。ひどく雑然としている。エントロピーの増大が著しい。ターニャは自分が気圧されていると気づいた。
「いらっしゃい!」
「こんにちは、二人です。テーブル席空いてますか?」
「ちょっと待ってな。おい、じじいども! 可愛い嬢ちゃん二人にテーブル席空けてやんな!」
食事中だった客たちが次々に席を立つ。会計を済ませて出る準備をする客、カウンターに皿を置いて立ち食いする客、店の隅の木箱に腰かけてパンを頬張る客。
ヴィーシャは笑顔で彼らに挨拶し、礼を言い、手を振っている。ここで固まっているのはヴィーシャの友達としてよろしくない。ターニャは決死の覚悟で口を開いた。
「あ、ありがとうございます」
「おや……お前さん、去年の夏あたりに越してきた……なんつったか……」
「た、ターニャ・デグレチャフです」
「おお、そうだ、ターニャちゃん! うちの婆さんが世話になってるなあ。ほら、駅でいっつも日向ぼっこしてる」
「えっと……ああ、マダム・シュトラウスですか。私こそ、いつもお世話になっていて……」
「はっは、あの婆がマダムか、そりゃいいや! おい親父、このフロイラインたちのぶんもチップ置いとくからな! んじゃ、失礼するぜ。今度あの男前な旦那さんの話聞かせてくれよな」
なんと返せばいいものか悩んでターニャが曖昧な笑みを向けると、ちょうど店の主がテーブルを拭きに来た。
「ウド、よその幼妻口説いてる暇があったらさっさと席空けやがれ。ったく……気を悪くしないでくれよ。久しぶりに越してきた若い人が大変にお似合いで熱々な夫婦だってんで、みんなお友達になりたがってんのさ。俺はティモ・ハイツマン。ここらで一番の料理人だ」
「そりゃここらに飯屋は親父んとこしかねえからなあ」
「うるせえ、さっさとそのでけえケツ、おっと失礼、大きな尻をどけねえか」
なにがなにやらわからないが、どうやら歓迎されているようだった。
日本の記憶が残っているターニャとしては、賑やかな厚意が息苦しくすらある。それに、善意で話しかけてくれる人たちの言葉に怯えるのはあまりにみじめだ。しかし、前世を言い訳にするのは今を生きる中で得たすべてに失礼だとも思う。だから、無理をしない範囲で歩み寄る覚悟をした。
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