第05話 花束
戦時中には想像すらしなかった牧歌的な風景がガラスの向こうに流れていく。車窓に風情を感じる日が再び来るとは、レルゲンには予想できなかった。
行きがけに買ったベーグルサンドがなかなかに美味だったため、勢いで買ったチョコレートには手を付けずに済んだ。レルゲンも甘いものは好きだ。しかし、気分と財布が緩んだ結果マダムの押し売りに負けて高級メーカーのチョコレートを買いました、などとターニャに報告したら鼻で笑われるに違いないと、レルゲンは忍耐を選んだのだ。なぜだろう、ばれないという考えはなかった。
そう、レルゲンは今、ターニャの新居に向かっている。
いつぶりかわからないほど久しぶりに私服を着て、時代遅れの格好になっていやしないかと内心冷や汗をかきながら駅に向かった。何を緊張しているのやら、予定していた電車より四十五分も早く駅に着き、食事時に着くのは迷惑だろうと散策していたらこのありさまだ。
「なんとも、情けないものだな」
レルゲンの膝には花束が載せられている。第二〇三航空魔導大隊の面々が一輪ずつ持ち寄ったものだ。前線で食品に使う保存術式がかけられているため、解除するまでは枯れることはない。うまい具合に四季の花々が揃っている。悩みに悩んで、レルゲンも一輪加えた。
手持無沙汰で、しかし花束をいじるわけにもいかず、本を忘れたことを悔やみながら窓の向こうに目を向けていると、降車駅にたどり着いた。
住所を見るに、どうやら駅からしばらく歩くらしく、レルゲンは花束を手にため息をついた。周りから見たらさぞ滑稽だろうが、幸いなことに人はいない。
道中、車の一台もすれ違わなかったことに首を傾げながらも、レルゲンはその家を見つけた。ひどく小さな目立たない家で、小さくデグレチャフの表札がかかっている。
ノッカーを叩くが、返事はない。
「あー、こんにちは。エーリッヒ・フォン・レルゲンだが、ターニャ・フォン・デグレチャフ殿はご在宅ですか」
声をかけるが、やはり返事がない。
無駄足だったかと引き返そうとした矢先、レルゲンの耳に物音が入った。椅子が倒れるような音だ。
あの化け物に限ってまさかとは思うが、再び誰かに襲撃されている可能性もある。そうなればレルゲンとしても寝覚めが悪い。それに、居留守を使ったのなら文句の一つや二つ言う権利もあるはずだと考えた。
レルゲンは扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。
「――大佐、何をしている!」
室内の状況はレルゲンにとって驚愕と困惑だった。
やつれた顔のターニャが、歯を食いしばって、己の心臓に包丁を向けているのだ。
荷物を放り出して慌てて駆け寄ったレルゲンに反応も見せず、手の震えが包丁の切っ先に伝わり、シャツを開いて露になった胸に微細な切り傷を作っている。事情は分からないが、このままでは危険であることはたやすく理解できた。
レルゲンは彼女を刺激しないよう、後ろから抱くようにして包丁を握る彼女の手を掴むと、ゆっくりとそれをほどいていった。あまりにか細く、また青白い手は、到底十三歳のそれとは思えず、老衰で他界した曾祖母を思わせた。
包丁を取り上げて静かにテーブルへ置くと、ようやくターニャが口を開いた。
「……笑ってくださりますか。自害する度胸もない意気地なしと」
「馬鹿を言うな。傷が浅くてよかった」
「なにがよかったんですか。私は死ねなかった。訪ねてきた知人の顔を見るのが怖くて居留守を使う恥に、生き汚さを重ね塗りして」
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