失いし者、取り戻せし者
巨体に轢き潰される。多腕に引き裂かれる。薙ぎ払われ胴が泣き別れになる。暴れ馬の様な狂乱に頭部を潰される。もう一つの口より出た水銀にその身を溶かされる。果ては、跳躍の後にその落下に巻き込まれ、挽肉となる。
そのようにして、幾度も、幾度も殺された。
幾度も殺され、苦痛をその身に刻みこんだ。
だからこそ、今がある。
目の前の醜き獣を、彼は見極めた。
動きを、蠢きを、その跳躍を。
これが何度目であるかは、数えていなかった。
強いて覚えていたのは十を越えた辺りまで。元々、数える事など無意味であり、その分の思考は相手に向けねばならない。
唯一心配であるのは武具の摩耗による破損。しかしそれらは夢を通り、夢となり、夢を観れば治る胡蝶、凄惨たる悪夢。ならば幾らでも、この身を費やす事が出来る。
斃す。ただ、斃す。その一念。
それに呑まれそうになる度に、使命を浮かべる。
殺意、悦楽、修羅。それに呑まれてはならない。
此処に来てから、何度言い聞かせただろうか?
兎も角として。
闘いは再び始まった。跳躍を、前にすり抜けるようにして避ける。そうして義手を鳴らした。仕込み義手から飛び出た武器は、忍びのものでは無い。それはこの土地に来てより手に入れた火を吹く武器。
剛、と橙炎が燃え盛る。
獣は火に弱い。その原則が、このような異形にすら通じるという事。半ば自棄気味に放ったこれが有効打であると気付いた時は、何度目だったか。
いずれにせよその炎は、醜獣を灼く。
その、硬質の皮膚が炭の様に成り、切断し易くなる。
一歩。
しかし、噴炎の合間を縫うように、獣はその手をこちらに振るう。何とかそれを弾く。動きを予測していなくば、そのまま身体を貫かれていただろう。弾かれた事に苛立ったように、獣は連撃を繰り出す。
一撃一撃が、当たればそれぞれ必殺になるであろう攻撃。
しかし今や狼は、それら全てを弾く事を可能としていた。
弾き、斬る。
その、忍びの動作一つ一つが以前とは異なる。
否、更に以前に、戻ったと言うべきであろう。
襲い掛かるそれらを見事に流し返す様を、葦名流の開祖は、滝を登る鯉に喩え、また、苛烈に刃を翻す様を、滝を下る鯉に擬えた。
そして、攻撃の受け方も、また身体が思い出していた。そうだ。葦名の民は知っている。流れる水こそ、強いということを。硬く受け止めるのではなく、流れるように受け流すべきだと。
登り鯉。加える事の、下り鯉。
それを宿すは、流水。
戦況に、大幅に加算はされないそれら。
だが、また一歩。勝利に近づく。
本能のまま、溢れ出る殺意のままに、獣が自らに奔る。
轢き潰そうという魂胆だ。だがそれはもう、見切った。
鉤縄を横の壁へと飛ばし、跳び、避ける。
そして空中で身を回し、獣へ、その義手より出たもう一本の鉤縄を飛ばした。否、それは鉤縄では無い。何かの、腕だ。
それは、彼がこの悪夢に来てより手に入れた仕込み武器。武器としてすら認識できなかったそれを、ただ勝つ為だけに用いる。
小アメンの腕。
隻狼は知る由も無い、その武の名前である。
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