嵐の中の大事件
手を見よう。右でも左でもいい。
人種によって色の違いがあるだろうが両親から頂いた大切なもんだ。
特別か特殊か特異な事情でもない限り、人間なら普通に持っているだろう両手。
ホクロがあったり、爪が長かったり、岩のようにゴツゴツしていたり、白魚みたく可憐でちっちゃかったり。
掌の肉が冷たい金属に食い込み、汗が流れおちた。滑らないように握り直していると下から蘭豹の怒声が届く。
「オラァッ! フック付きワイヤー昇降訓練、きばれや大石ぃ! ちんたらやっとったらもう一○○○往復やらせっぞ!」
「りょ、りょーかいっす」
「返事が小さい!」
「了解ッ!」
高さ一○m弱のロッククライミング用の屋内設備。てっぺんに固定したバーにフック付きワイヤーを引っ掛けて昇り、そして降りるという訓練をさせられていた。
先日、強襲科の依頼を一回やることになったとき、蘭豹先生に捕まって仰せつかった早朝訓練のせいだ。
あんのゴリ……じゃなかった理不尽教師め。「朝五時半には強襲科に来い。一分遅れるたびに単位を一ずつ減らす」なんて脅してきやがって……。
バスもまだ出てない時間だから仕方なく自転車で登校する羽目になったんだぞ。
しかも雨だ。今日は天候が悪い。傘は差したけどズボンがまだ湿ってる。
ほんと今日は厄日だ…………あれ、最近厄日しかなくね?
墨を塗りたくったような黒雲につられてテンションが下がる。
竹刀をびしばし床に叩きつけていた蘭豹が声を張り上げて喝を入れてきた。
「シャキっとせいや大石ぃ! おどれは格闘も射撃もよろしくねーやろ! ならワイヤー捌きで奇をてらうしかないやろっ! ええか、手のスナップが大事や。野球ボールをぶんなげるようにしなりを利かせながら射出すればええんやからな!(……ま、本当の実力が判らんけど絞っときゃしまいに判るはずやし)」
「はいはいよっと、やってますから!」
いや別にそんなに不満があるわけじゃないんだけどさ。
熱心に教えてくれるし、やるからにはキチンとしたくなるのが性分だった。
口より身体を動かそう。この訓練もひとえに死なないための努力なのだから。
現在やっているのは割と初歩的な――ワイヤーの昇降訓練だ。
フック付きワイヤーは片手で持てる簡単な装置。掌にスッポリ収まる程度の大きさで、片手で握れるよう長方形の穴があいている。
よく使うのは屋上のフェンスに引っ掛けて、降下。振り子のように動きつつ、窓を破って突入するという映画さながらのダイナミック戦法だ。
また、これとは別に先端の鋭いタイプがあって、引っかける場所がない場合は対象に突き刺して壁や急斜面に張り付くものもある。
武偵の必須技能の一つで、俺も実戦で使ったことがあったっけか。風が強い日に使ったせいでフックが外れ、ほぼノーロープバンジーで落下。運よくゴミ箱に突っ込む大惨事をかましたがな! トラウマもんだよ……。
兎に角だ。
命綱は一応あるし、内申を下げられて留年とかもしたくない。地道に頑張ろう。
そうやって一、二時間の間延々と昇降作業をこなしていたのだった。
「よし、今日はもう上がってええで。朝の授業には遅れんようにな」
「はぁ……はぁ……ありが、とう、ございました……はぁ……」
肩で息をしながら、やっと訓練が終わったことに安堵する。
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