第十六話 『咆吼』 一樹守 冥府 5:40:39
それはまるで、『冥府』へと通じる階段だった。
冥府下り――神や英雄などが、『冥府』、すなわち死者の国へ下りて行くことである。世界中の神話に見られる話だが、特に有名なのが、ギリシャ神話のオルペウスや、古事記のイザナギだろう。いずれも愛する者の死を嘆き、冥府へと迎えに行くという話だ。そして、どちらも愛する者を連れ戻すには至らなかった。
七つの鍵を開け、門を開いた一樹守は、岸田百合と共に地の底へと続くような鉄の階段を下りていた。すでに三十分以上下りているが、いまだ底は見えない。恐らく五〇〇メートル以上は下っているだろう。とてつもなく深い穴だった。そのような穴が存在するのだろうか? もちろん、鉱石の発掘現場に掘られる穴は、深さ一キロメートル以上になることも珍しくないし、石油や天然ガスともなると一万メートル以上のものもある。だが、いま一樹が下りている穴はそういった人工的なものではない。階段こそあるが、それは元々あった穴に後から取り付けたと思われるもので、穴自体は天然のものに見えた。天然の穴で深いものだと、一樹が知る限りでは、中国に深さ六〇〇メートル以上になるものあるが、その穴は入口も直系六〇〇メートル以上と、極めて巨大だ。それと比べると、いま一樹が下りている穴は離島の小さな遊園地に建つ観覧車の場所に出没したもので、その入口の直径は三〇メートルにも満たないだろう。そのような不自然な形の穴が、なぜ突如現れたのか。
シンクホール。
そう呼ばれる穴がある。地表に突如出現する穴で、世界中で例がある。原因は無数にあるが、多いのは、地下水の浸食や、その他、なんらかの化学変化による地面の陥没だ。あるいは、鉱石の発掘跡の陥没や、最近では地下鉄や地下街の工事の事故、水道管やガス管の破裂によるものなど、人為的ミスによるものも少なくない。
状況から考えると、この穴もシンクホールなのかもしれない。だが、そういったシンクホールはせいぜい数メートルから数十メートルの深さで、一〇〇メートル以上のものなど聞いたことがない。もちろん、今まで一樹が聞いたことがないからと言って、存在しない理由にはならないが。
大きく首を振り、考えを振り払う一樹。そのような科学的な解釈は、今はどうでもいい。重要なのは、この穴の底に囚われているという百合の母親を救い出すことだ。この穴がどうやってできたのだとか、この鉄階段は誰が取りつけたのだとか、このような穴の底に囚われている母親とは何者なのかとか、余計なことは考えなくていい。ただ、百合の母親を救う、そして、百合を助けることだけを考えていればいいのだ。
先を進む百合は裸足だった。階段を下りる途中、百合は早々にブーツと靴下を脱いだのだ。百合のブーツはヒールが高く、筒丈もひざ下まであるものだ。長い階段を下りるには危険だったのだろう。素足に傷がつかないか心配だったが、仕方がない。
「ようやく……ここまで来ることができた」
百合が、闇の底を見つめながら、つぶやくように言った。
そして、羽織っていた赤いカーディガンを脱ぎ捨てた。カーディガンは吸い込まれるように闇の底へと消えた。百合は、純白のブラウスと、純白のプリーツスカート姿になっていた。雨に濡れたブラウスがぴたりと張りつき、純白の下着と、そして、ブラウスよりも、スカートよりも、下着よりも、ずっと純白な百合の肌が、透けて見えた。ごくり、と、百合に聞こえるのではないかと思うほどの音を立てて、一樹は唾を飲み込んだ。
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