口論
モローは塞ぎ込んでしまった。
無理もない、彼は婚約者を失ってしまったのだ。
もっとも悪い事に、彼の婚約者は惨殺され、彼はその惨たらしい遺体を目の当たりにしてしまった。
彼は今ドミトレスク城の一室にいて、ドナが彼に付いていた。
これまで自身がそういったことをされる側だったからか、彼女はどうにかモローの心の傷を癒そうとしている。
その奮闘の効果があったとしても、モローの傷は癒えるまでに長い期間がかかることだろう。
……もしくは、生涯をかけても癒えないかもしれない。
方や、私はオルチーナ様と共に執務室でマザー・ミランダの手記を読んでいた。
その内容から察するに、私の危惧はあながち間違ってはいないようだ。
彼女は娘を失い、理性を喪失してしまっている事だろう。
「つまり、マザー・ミランダはオットーを救おうとして、自分の娘を死なせてしまった。…なんてこと!」
「スペインかぜは非常に強力な感染力を持っています。ですが、彼女が知らなくても当然でしょう。私も軍隊にいたから知り得ただけです。」
「…エヴァはまだ幼かった。オットーの事を彼女任せにしなければ…!」
「ご自身を責めないでください、オルチーナ様。こうなったのは誰のせいでもありません。…強いて言えば、オットーを追い出した将校でしょう。この村の住人は、誰一人悪くはない。今考えるべきは、マザー・ミランダをどうするか…または、彼女がどこにいるか、です。」
「ええ、あなたの言う通りよ、セバスティアン。」
オルチーナ様はそこまで言うと、両肘を机につき、例によって"母性"からキセルを取り出して咥え始めた。
私は何も見ていないフリをしつつ胸ポケットから紙巻きタバコを取り出す。
「ご一緒しても?」
「…ええ。けれど、程々にね。」
紙巻きタバコに火をつけて、その煙を吸い込んだ。
それはオルチーナ様も同様だったが、表情は彼女の方がより深刻そうだった。
まだ私が成人する前、いたずらっ子のダニエラに手を焼いたオルチーナ様が嘆いた時がある。
「ダニエラ!あなたのせいで来年にはきっと私、お婆ちゃんよ!」
今のオルチーナ様は"お婆ちゃん"どころでは済みそうにないほど頭を悩ませている事だろう。
「……例の怪物は山の方へと逃げていったのね?」
「はい。残念ながら仕留めることはできませんでした。他の村人に危害を加えてなければ良いのですが…」
「今のところ、その手の情報はないから安心してちょうだい。」
「…………我ながら情けなく」
「いいえ!あなたも危うく、あの怪物に殺されるところだった。生きて帰っただけでも満点をあげたいくらい。……さて。怪物が山の方に逃げたなら…隠れ場所は"あそこ"かしら。」
オルチーナ様が思い描いている場所に、私は覚えがある。
きっと、あの洞窟の事を言っているに違いない。
まだこの地域がオスマン帝国の支配下にあった頃、トルコ化を推し進める帝国の弾圧を逃れるために、主の教えを保たんとする人々が逃げ込んだと言われる洞窟がある。
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