ハーメルン
ウマ娘と辿る日本の歴史
第4回「駆け出しの一等星 光輝くウマ娘達」中

 信頼する長屋王を失い悲嘆に暮れる聖武天皇でしたが、一方でこれは改革の機会でもありました。かつての保守勢力は長屋王の死で萎縮し、貴族と民衆は藤原氏を支持しています。今ならば、以前に流れたアスカの立后も可能となるのです。
 同年、藤原アスカは皇后となり、光明皇后と呼ばれるようになります。日本史上唯一のウマ娘の皇后であり、皇族以外が皇后となるのは仁徳天皇以来のことでした。
 光明皇后は地位が上がっても相変わらずーーいや、ますます社会福祉に力を入れて自ら前線で働きました。
 730年、貧しい病人の保護、治療を行う施薬院を設置。ここでは何と、大陸からもたらされた漢方や薬用人参といった貴重な薬が使用され、民衆やウマ娘は光明皇后と藤原氏に畏敬の念を抱いたと言われます。
 また、光明皇后はここで医師が育成することにより疫病に喘ぐ奈良時代の医療を少しでも改善しようともしたのです。

「ナンデオクスリモッテルノ!?」

「それは私が皇后陛下の主治医だからです」

「ワケワカンナイヨー」

 施薬院に関してはこのような伝説も残っています。
 千人の垢を洗い落とすことを自ら志願した光明皇后が言葉通りに人々の身体を洗っていると、最後の千人目に重症のハンセン病患者が現れました。光明皇后は顔色一つ変えず患者の身体を洗いましたが、患者は皇后に膿を口で吸い出すよう要望したのです。流石に周りもいい加減にしろと怒りますが、皇后は躊躇うことなくその通りにしたのです。

「このくらい当然ですわ。さあ、お身体もキレイになりましたし、次は藤原家特別施薬をーーあら?」

 患者は正体を現し、如来となって光明皇后を祝福したと伝わります。流石に史実では無いでしょうが、一方で光明皇后が本当に施薬院で活動していたのは記録にあるので、彼女の働きに感動した人々によってこのような伝説が作られたのではないでしょうか。
 そして、この時期、あるウマ娘の活躍が広まりつつありました。
 その名は行基。奈良時代を代表する異才です。
 彼女は668年に現在の大阪府堺市に生まれ、15歳で仏門に入ります。その後、飛鳥寺や薬師寺で修行をする中で生涯の師となるウマ娘、道照上人と出会います。道照は西遊記でも知られるウマ娘、三蔵法師玄奘の愛弟子であり、彼女から「梨と同じくらい好き天竺への旅の中、飢えた彼女は偶然差し出された梨を食べて命を永らえたので、命の恩人と同じくらい大切に思っているといった意味である。……たぶん。」と言われるほど愛され、その教えを受けた名バです。道照は師から日本には走禅をもっと詳しく広めるべきとのアドバイスを受け、日本のウマ娘により正しい走禅を広めるべくウマ娘でありながら指導人としても活躍していました。
 体格で劣る行基は競技では大逃げをかまそうとして結局体力が足らず惨敗することを繰り返しており、走禅においてもいまいち何かが足りないと不満感を持っていました。しかし、道照との出会いで彼女はついに悟りを開くに至ったのです。

「そうか。大事なのは勝つことじゃない。諦めずに走るから走禅なんだ。それも正しい姿勢で、正しい体力配分で走り切るために修行があり、ギョーキたち仏門はそれを教えるために今まで学んできたのか!」

 自分が今まで好きに走り、正しい姿勢や体力配分を軽視していたことを反省した行基は、自らは競技から離れるも様々なウマ娘に師から学んだ走禅の意味に加えて正しい姿勢と体力配分を分け隔てなく教えることを決意します。しかし、当時の指導人は朝廷によって選ばれた者しかなることのできない特別な立場であり、道照のような大陸で修行した実績ある名バがするならともかく、何の実績もない行基が指導をするのは弾圧されても仕方のない行いでした。まだ家族もいた行基は今は雌伏の時と見定め、自由になるその時を待ちます。

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