忘却
記憶。経験の連続からなる集合体であり、脳内に蓄えられた経験が、新たな刺激と共に変化するもの。
『四足歩行かつワンと鳴く生き物は『犬』である』そう学ぶように人はどんどんと既存の知識を肉付けしていく。
記憶とは絶えず変化するものであり必要な物、必要でないものに振り分けられていく。それは万人に訪れる『学び』であり、そして『忘却』でもある。
──人は忘れることを選べない。そういうものだから。
ふと、牛乳を飲もうとして気がついた。いつから彼女へのコップを用意しなくなったのか。と手が止まる。いつから怒られるからと習慣づいていたカーテンを開けずに平気でいられるようになったのか。思考の海に溺れそうになる。
伏せられた写真立て。閉め切ったカーテンから漏れ出す光が当たる。そこから埃が浮かび上がっているのを見て、ふと目頭が熱くなる。
想像の中の彼女に靄が掛かるようになってから、いったいどれほど経ったのだろう。
久しぶりの外は目が痛い。イヤホンを外したときのように騒音が一気に襲い掛かってくる。仕事を詰め過ぎて強制的に取らされた休みに戸惑いながら人混みを泳ぐ。
「っと、ここか」
ネットで見た断片的な情報を元に、古びた映画館に辿り着く。
スカラ座と書かれた看板、かつて盛況を誇った昭和のスターが立ち並ぶポスターがこちらを見ている。
切り取られた異空間を感じながら薄暗い館内に入ると、つんとした埃の香りが鼻をつく。上映中になっているのは一つ。『あなた』というものだけだった。
ごめんください。と声が剥がれかけたタイルの床を這っていく。すると、チケット売り場と書かれた受付のカーテンが動いた。
「大人一人は、三時間だよ」
しわがれた声のような子供のような声がする。カーテンの奥は見えない。不思議な声が誰もいないホールに静かに響いた。
この奇妙な答えを聞くと同時に、噂は本当だった。と確信に至る。
「では、5年分を」
「返却は出来かねますよ」
構いませんと、手を差し出すと皺だらけの手が重なった。離すとそこには古びた半券が乗っていた。
「準備をしますので、三番ホールにお入り下さい。もうすぐ上映します」
重い扉をぎぃ、と開くとき、何かが軽くなった気がした。
立ち並ぶ赤いシートに腰を下ろす。締め切った映画館の真ん中にいると、宇宙にいるような気さえしてくる。宇宙に一人漂う空間を想像して息を吐いた。
「上映中はお静かに」というやけに達筆な張り紙を横目に見る。もう何度目の時計を気にしたか。腕時計は無いのに確認してしまう。
14時半は過ぎたなと思っていた頃、唐突にけたたましいブザーが鳴って、照明が落ちる。
カタカタと映写機が回る音ともに、懐かしい情景が浮かんだ。
「どこかで会った事はありませんか?」
あぁ、そうだった。確かにこの言葉だった。慣れないナンパをして笑われたのを覚えている。
目の前にはなんてことない、どこにでも転がっているようなラブストーリーが展開されている。
出会って、恋に落ちて、そして結ばれた。
真面目が取柄な男と、その生活を好ましいと思ってくれた女性のありふれたストーリー。
世界で僕と、『あなた』だけのストーリーだった。
忘れていたものが、絶対に忘れないと思っていた出来事が、忘れまいと誓った顔がセピアのスクリーンに流れていく。時に軽快に、時に情緒的に。
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