ハーメルン
身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に
「入院したところまでは」
大きなベッドが一つ。ベッドの両脇にはそれぞれ小さめのキャビネットが置かれた部屋。
趣味のよい、程々に薄暗い照明でぼんやりと照らし出された、寝室。
「ひとまず、この部屋で寝てくれたまえ」
激動の一日を経て、いよいよ本格的に精神的な疲労がピークだったのだろうか。
若干の気まずさの漂う食卓ながらも食事を済ませ、片付けをして。
食後のお茶を淹れるなどしつつ、リビングで話をしながら船を漕ぎ出した私は、彼女の手によって寝室に放り込まれていた。
シャワーも浴びずにベッドで眠るのに気が引けたが、それ以上にふかふかと心地よく身体を包み込むベッドの魔力によって速やかに眠気が仕事をし出したお陰で、私は抵抗の気力も失いそのままベッドに沈む羽目となったのだった。
「おやすみ。私は少しばかり用事を済ませてから眠るよ」
「ん……おやすみ……」
閉じていくドアの向こうへとそんな言葉を掛けたのも束の間。
不意に目が覚めた。
何かを感じて、寝ぼけ眼のまま何事かと身を起こす。
それは物音だっただろうか。あるいは、光だったか。
いわゆる常夜灯程度の薄暗さの中、重たい瞼をうっすらと開く。
ドアが開いている。廊下の灯りが少々目に眩しい。
その灯りが、ぼんやりと何かの輪郭を浮き上がらせていた。
ぴょこんと頭から飛び出した二つの菱形。ウマ娘。
「……タキ、オン?」
「ん? 起こしてしまったかな。そのまま寝ていてくれたまえ」
思わずかけた声に、軽い調子で返事が帰ってくる。
ゆっくりと、廊下から差し込む光が絞られていって、ぱたん、という音を残して消える。
ぱた、ぱたとスリッパが床を叩く音。
そして、ぎしりと軽い軋む音がして、ベッドが揺れた。
何かこの部屋に忘れ物でもしたのかな、と、まだ覚醒しきらない頭は考えた。
一日に処理できる情報量なんてとうに超えているのだ。今日はもう眠りたい。
再び枕に頭を埋め、なんとなしに彼女の気配のした方とは反対側に寝返りを打つ。
ごそごそ、と軽い物音。
同時に少しだけ、肌寒い空気が布団の中へ流れ込んで。
そして、ふわりと甘い香りがした。
「………………え?」
事ここまで来て、惚けようだなどと思ってはいない。
だが、だけど。
背中越しに触れた暖かさ。それが微睡よりも驚きを与えてきたせいで、あれほど付き纏っていた眠気はどこかへ消え失せてしまった。
驚きのあまり、そして睡魔の代わりとばかりに訪れた緊張によって身体が硬直した。
何故だか身動きが取れなくなりつつも、囁くようなボリュームで抗議の声を上げる。
「……いやいや、いやいやいやいや。これはちょっとタキオン、どうなんだ。駄目でしょ間違いなく」
距離が近い、というか。
ほとんどベッドの中で密着するような状況。
背中が暖かい。若干の湿り気。入浴でもしてきたのだろうか。
甘い香りが強くなる。
ふぅ、と首筋に溢れる吐息。
「これはこれは。今更腰が引けてきたのかい?」
揶揄うような、囁き声。
ぺた、と頭の後ろに何かが触れた。
驚いてはっきりとしてきた頭が急速に回転を始める。
落ち着け。落ち着け。
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