ハーメルン
身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に
「迎えに来たよ」


夜が明けた。
病室に掛けられたクリーム色のカーテンを通して、柔らかく散乱した陽光が部屋を明るく照らし上げる。
カーテンを捲る気力もなく、ただ「ああ、ようやく朝か」と遅々として進まない時の流れに身を委ねていた。

長い、長い夜だった。
光が随分と黄色く見えるのは、一睡もできなかったからだ。

壁を睨みつける。
正確には、壁に掛けられたそれ。
見覚えのない年を表示しているカレンダー。

事故。
現実とうまく合致しない認識。
そして、アグネスタキオンと名乗った彼女。

十年だか二十年だか知らないが、記憶が飛んでいると言われても冗談としか思えない。
正直に言って、私には、関係のないどこか遠くで起こっている出来事のように感じられてならなかった。

現実味のない、与太話。

彼らは言った。
「記憶が混乱している」と。
混乱、という言葉を用いたのは、配慮だったのかもしれない。
だが、彼らの言いたい事はこうだっただろう。

「記憶喪失」

逆行性健忘症。
発症した時期から過去に遡りある程度の期間の記憶が思い出せなくなる。
所謂「記憶喪失」だ。

物語や小説、ありとあらゆる創作において使い古された「非日常ファンタジー」
そうそう起こり得ないからこそファンタジーとして取り扱われるのであり、題材になりやすい。

そんなものが、自分の身に起きたと言われたところで、「はいそうですか」と頷けるはずもなかった。






彼女の抑え込んだ嗚咽が耳から離れない。
ドア一枚を隔てた向こうから、微かに聞こえたそれが。


耳に焼き付いて、離れない。









『記憶の混濁はまだ回復していないようですが、身体自体は健康ですよ』

朝の回診でそんなことを言われたからか。
それとも、ただ確かめたかっただけだったのだろうか。

これが夢だと。しょうもない冗談なのだと。

病室を抜け出す。
着替えようと言う考えすらなく、病室のスリッパで外に出た。

「少し散歩をしたくて」

なんて、適当なことを言って外履きのサンダルを借りた私は、そのまま病院の敷地から抜け出した。
外に出てようやく振り返る。
ここは一体何処なのか、と。

背が高い、白を基調とした大きな建物。
全体的に清潔な雰囲気で、植栽の類も整えられている。
随分と大きな病院だ。

建物の側面に設られた表示を見て、ほっと胸を撫で下ろす。

「……日本ウマ娘トレーニングセンター学園附属病院」

幸いにして、知っている名前のようだった。









そのままどれ程彷徨い歩いただろうか。

出てきてから、今の私は完全なる一文なし状態であることに気がついたのは、喉が乾いたと道端の自動販売機に立ち寄った時だった。

就職を機に引っ越してきたため、周辺はかなり歩き回っていたし、大きな病院など必要になる可能性のある場所も調べてはいた。

なんとか歩いて行ける範囲だと思っていたが、想像以上に遠く感じる。

[9]前話 [1]次 最初 最後 [5]目次 [3]栞
現在:1/3

[6]トップ/[8]マイページ
小説検索/ランキング
利用規約/FAQ/運営情報
取扱説明書/プライバシーポリシー
※下部メニューはPC版へのリンク
携帯アクセス解析