ハーメルン
身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に
「なあ、君」
脳がまともに働いていない、というのは自分でもよく理解していた。
ふらふらと揺れる身体に鞭を入れ、軽く頭を振って意識の覚醒を促す。
眠りが浅くなったせいか、朝早く目が冷めるようになっていた。
ぺたぺたと間抜けな足音を立てて寝室を出て、リビングへ。
人の気配のないリビング。
机の上に置かれているのは、ミキサーが一台のみ。
味気ないねえ、等と。
ろくに回っていない脳で考えた。
この家で一人になって1週間と数日。
随分とひどい色をした流動食のようなものを喉へ流し込む。
こんなものはヒトの食事ではない。不味いという一言では形容しきれないほどの味と匂いには辟易する。
「はあ。最低限文化的な食事というものがあるだろう。なあ、君……」
思わず零した愚痴は、誰もいない空間に反響して消えた。
そうか、君は居ないのか。
たったこれだけの期間。
これまでも遠征や出張などで1週間2週間と家を開ける事はあったが、これほどまでに苦しいものだっただろうか。
私の精神は酷く衰弱しきってしまったようだ。
ミキサー食で済んでいたものを、わざわざ手料理など食べさせて、ミキサー食を禁止しておいて酷いじゃないか。
こんなもの、流し込んでもすぐに戻してしまう。
それに、一人でも大丈夫だと思っていたのに、今じゃこの家が酷く空虚なものに思えて仕方がない。
君のせいだ。
ようやく目を覚ました君を見て、安心というような言葉では言い表せないような大きな感情の動きを感じた。
冷え切っていた指先に、暖かい血液が回り始めたように。
だけど、君ときたら何を恍けた事を言っているのだろう。
『どなたですか?』などと。
正直に言えば、君を失う可能性は常に頭にあった。
なにせ、頭部に外傷を負って昏睡状態だ。
万が一、は考えていた。
考えざるを得なかった。
頭部の傷というのは突然悪化する。
もしも、万が一。
そういった可能性は、目を覚ました事で一旦は棚に上げられた。
……そう、思っていたんだけどねえ。
持ち上げて落とす、というのは少々たちが悪いんじゃないかい?
「…………さて」
机の上に、昨日の検査結果を広げていく。
外傷は今のところ特に悪化もしておらず、経過は順調。
損傷部位は脳へ届いておらず、まあモルモット君の固い頭に少々罅は入ったが、幸いにして脳への損傷は一切無し。
検査の結果、脳の出血等はなく、生命への別状はなし。
とはいえ、それはそれで十分に大事なんだけどねえ。
目下の問題だった昏睡状態も、君がその重たい瞼を持ち上げた事で解消した……と安堵したら、記憶の混乱ときた。
余所余所しい態度のモルモット君が、当然のように口にした日付は十年以上前。
年月から逆算すると、トレセン学園へ就職する前となる。
そうか。
今の君は、まだ私と出逢っていなかった・・・・・・・・・・・のか。
がたがたと、机の上に置いていた携帯端末が震え出す。
こんな早朝から何事かと思い、通話を繋げば。
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