ハーメルン
身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に
「そうだろうね」
「……本当、なんですね」
傘を差してくれた礼を言うよりも先に口を衝いて出たのは、どうしようもない現実に対する感想だった。
「そうとも」
雨音に紛れるようにして返ってきた言葉は、平然とした音色の割には弱々しく掻き消されていく。
「信じたくはないだろうけれどね」
ばたばたと、翳されたビニール傘を叩く雨音が、いやに耳に付いた。
「信じたくありませんでした」
水面に映り込む、見慣れたようで随分と違う顔。
それが私の発言に合わせて動くのを、気持ち悪いと感じてしまう。
「そうだろうね」
その言葉を口にすべきではなかった、と思わなかったわけではない。
どうにもならなくて、何か言いたいわけでもなくて。
口を噤んだ。
ただ無言で時間が過ぎていく。
雨音と、時折通り過ぎていく車の音。
「身体に障る。病院に戻ろうか」
返事はしない。
できない。
言い訳にしかならないが、こんな事が自分の身に降りかかってきて、すぐに前を向けるほど私はできた人間ではない。
口を開けば、きっと恨み言しか紡げない。
だから、首肯した。
立ちあがろうと身体に力を込めると、ぐしょと濡れた患者衣が音を立てる。
思うようにならない。冷え切った身体が上手く動かない。
藻搔くように伸ばした手を、細い指が絡め取った。
「おっと。身体が動かないのか」
後ろに、ベンチにそのまま倒れ込みそうだった身体が支えられた。
ぐい、と身体を引き起こされる。
情けない。なんて体たらくだ。
「ふぅン……車を拾ってくる。少し待っていたまえ」
ばしゃばしゃ、と水たまりを踏みしめて彼女が駆けていく。
何もかもをぐちゃぐちゃに乱されて、どうしようもない。
考えも支離滅裂だし、行動だってそうだ。
この荒唐無稽な現実も含め、私の頭がおかしくなった、と言われても仕方がないほど。
ああ。
どうにもならない過去と現在が、そして私にとっての未来は突然過ぎて、怒りのやり場も、何を恨めばいいのかもわからない。
ただ、仕方がなかった、と納得して、諦めるしかないのか。
考えはまとまらない。
まとまるはずもない。
結局私は、自ら身体を動かそうともできず、彼女の手によってタクシーへと押し込められた。
「びしょ濡れですね。大丈夫ですか?」
「……あまり大丈夫ではないねえ。至急トレセン学園附属病院まで頼むよ」
「ひとまず、こちらのブランケットを使ってください」
「助かるよ」
そんなやりとりが交わされ、車は静かに走り出す。
掛けられたブランケットが暖かい。
暑いだろうに、わざわざ気を利かせて強めの暖房を入れてくれている。
暖かさが、冷え切った身体と、ささくれ立った心に酷く沁みた。
外はもう随分と暗くなっている。
春先とはいえ、夕方を過ぎればまだ明るい時間は短い。
ぽつぽつと大通りの街灯が灯り始め、夜へと変わっていく街並みを眺めていた。
案の定、見たことのない店舗や、店舗デザインの変わったチェーン店。
そんなものばかりが目について仕方がない。
[9]前話
[1]次
最初
最後
[5]目次
[3]栞
現在:1/2
[6]トップ
/
[8]マイページ
小説検索
/
ランキング
利用規約
/
FAQ
/
運営情報
取扱説明書
/
プライバシーポリシー
※下部メニューはPC版へのリンク