ハーメルン
そして奈落へ墜ちてゆけ
#2 逃亡者



 先生はまず、何でも自分で試してみる人だった。
 決して善人とは言えなかったが、己の快楽の為に他者を傷付ける事は一切無く、そこには奈落の未知を解き明かすという芯が一本通っていた。
 いつか大穴を埋め尽くす程の羽虫が発生した時、先生は即座にその発生源である湖に猛毒を流した事があった。貴重な水場を潰し周辺の生態系を破壊したと非難轟々ではあったが、それでも先生の判断が遅れていればアビスから溢れた羽虫はオースの街に雪崩込んでいただろう。

 先生は過ぎ去っていく事柄を(かえり)みない。
 故に探窟家の誇りと伝統を踏み躙り、この奈落に夜明けを齎す者として"黎明卿"という二つ名で呼ばれてこそいるが、意味の無い犠牲を良しとしない徹底的な現実主義者(リアリスト)でもある。流される血に必ず意味を持たせる、そういう人だ。五層までのルートを開拓したはいいものの、六層に降りる手段に行き詰まった時もそうだった。

 人が人の形を維持したまま戻る事が叶わない、それが六層の上昇負荷。故にそこへ行き着くまでに要求される資格も、それまでとは一線を画す。なきがらの海を下り、還らずの都へと辿り着く為の祭壇を動かすには白笛が必要不可欠だった。

 その原材料である命を響く石(ユアワース)を作るのに必要なのは身も心も捧げる、端的に言えば人一人の命を消費する。だが先生は祈手達にそれを良しとする事を許さなかった。
 先導卿は所持している遺物の力でなきがらの海を下る事ができるという。なら私達にも他に手段がある筈ですよ、というのが先生の言い分であり。それに利用できそうな遺物を合法非合法の手段を問わず収集する、それが祈手としての自分の仕事だった。
 遺物の所有権は基本的に地上へ持ち帰った際に確定する。つまり限り無く黒に近いが、それまでに強奪すれば建前としてはこちらの所有物となる。自分が墜星などという仇名を付けられた理由は、まあ推して図るべしだろう。
 そんな日々の中、先生が精神隷属機(ゾアホリック)という名の特級遺物を手に入れたのは、ちょうど自分が祈手を辞めて前線基地を出る一年ほど前の事だった。

 使い手の精神をコピーし、他の人間に植え付ける。擬似的な不死を齎すそれは常に黒い噂が付き纏っていた。使い手は尽く発狂、自殺、複製体による自身の殺害。
 そんな代物が本当になきがらの海を越えるのに役立つのか、と疑問には思った。だが自分には学がなかった。ただ言われるままに遺物を収集し、先生を狙ってきた賞金稼ぎを捕らえて引き渡す。何の実験に使っているか定かではなかったが、考える理由もなかった。
 そしてある日を境に、精神隷属機を収納している研究室から先生は出てこなくなった。不安ではあったが心配はしていなかった。

 久々に研究室から出てきた後ろ姿に声を掛けようとして、凍り付く。

──あの、先生じゃない、ですよね。

 目の前の男が被っている仮面は確かに師の物であったが、その体格は大きく異なっていた。その胸には左手と左手を握り合わせた歪な白い笛が輝いている。

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