第3話『ヘラ』(1)
余熱の陽炎
三話 『ヘラ』
今より上の幸せは、いらない。
だから、今以下の未来をよこさないで。
*
転がり落ちてくる大氷塊に向かい突撃してゆく存在がある。突撃する彼は大氷塊よりもずっと小さい存在だ。同年代と比べて大きめの体つきも、その体躯の数百倍数千倍もの大きさはありそうな大氷塊に比べてしまえば、砂粒くらいにしか見えてこない。そんな大きさのものに向かって開いた右手を突き出して突撃するその行為は、いかにも愚かで無謀なものにしか見えなかった。
激突の終わりは数秒後に迫っている。もしもこのまま誰も何もしないでいたのならば、かつてのわたしのよう、彼はこのまま大氷塊の一部をほんの少しだけ赤く染めるシミになってしまう事だろう。
―――お願いだから、今すぐにその無謀な突撃をやめて!
飛び出ていきそうなそんな懇願を口の中へと縫い留めたのは飛び出ていった彼の視線だった。
―――あの程度のもん、大した障害じゃねぇよ
彼の瞳は無言のうちにそう訴えていた。今の彼の瞳に映っているのはわたしがあの時見た光景とほとんど同じものであるはずだ。細部にこそ多少の違いはあるけれども、少なくとも危機的状況である事は同然のはずだ。
けれども彼は、そんな同じものに対して、かつての私とは全く違う目線を送っているのだ。
彼は追い詰められて尚、その先にある未来を自らの手で掴み取ってやると折れずに抗っているのだ。
彼はまだ、諦めず、もがいているのだ。
その愚直さが、その諦めの悪さが、折れない心が、羨ましくて羨ましくてしかたなかった。
彼はわたしがかつて失ってしまったものを今もなお持っている。彼は自ら行動した先にある未来は間違いなく良いものであると疑いもなく信じている。彼は差し出した右腕が自らにとって最善最良の未来を掴み取れると、自ら選び進んだ道の果てに手に入れられる未来をなんの疑いもなく良いものだと心の底から信じきっている。
その純真さがとてもとても羨ましくて、目が離せなくなるくらい綺麗だと思った。
己をひたすら信じ、己の選んだ道を迷う事無く即座に進み、後悔するよりも前に立ちふさがる障害に突撃し、他の誰かの意見に容易に靡く事なく、欲するものや欲する未来を自身の手で掴み取る為に、苦難に満ちていると分かる自ら決めた道をただ只管に突き進んでゆく、その姿。
……あれだ。
―――あれこそ、わたしの欲しかったものだ
抑えようもなく涙が溢れ出た。
体が動いてくれたのはその後すぐのことだった。
*
「ヘラ!」
「うぅ……」
声に脳裏を直接叩かれ、目が覚めた。
「おい、ヘラ!」
―――うるさい
「うぅ、うぅぅぅぅぅ……」
頭の芯へと響いてくる声がどうしようもなく鬱陶しくて、声を返すのも億劫だった。
「おい、ヘラ! もう昼も近いぞ! 起きるんだ、ヘラ!」
―――うるさい……
「あぁ……、もう……、うるさいなぁ」
それでも聞こえてくる声が頭の中に残響するその感覚に耐えきれなくなって、身を起こす。
遮光カーテンが隙間なく全て閉められている部屋の中は薄暗闇と静寂に支配されていた。
「お、ようやくお目覚めか」
わずかな揺らぎも存在していないこの場所において約束を違えて声かけしてくる兄さんの存在とその声だけが異物じみていて、そのせいもあるのだろう、なんだか無性に腹立たしかった。
[9]前話 [1]次 最初 最後 [5]目次 [3]栞
現在:1/4
[6]トップ/[8]マイページ
小説検索/ランキング
利用規約/FAQ/運営情報
取扱説明書/プライバシーポリシー
※下部メニューはPC版へのリンク