13
夜。
大会会場であるホテルラウンジのバーカウンターで酒を一人飲んでいる緒方の姿を見つけ、行洋は断りをいれず隣の席に座った。
「……塔矢、先生」
今最も会いたくない人物に会ってしまったかのような苦々しい表情になり、緒方は行洋から顔を背けた。
そんな緒方に苦笑一つして、
「ネットのsaiとて、悪戯に周りをからかって自身の正体を隠したいわけではないと私は思う。彼にも正体を表立って名乗ることが出来ない理由があるのだ。そこまでして守りたいものも」
「ああも隠れたい理由なんて、私にはさっぱりですね。それを一緒になって隠す周囲も」
言葉使いを最小限にして緒方はつっけんどんな態度を返す。
酒の場だ。多少なり師と弟子の関係が緩くなっても許されるだろう。
先ほどの言葉にはヒカルだけでなく行洋も含まれているのだが、やはりと思う。行洋がこうして緒方を気遣ってくるということは、はやり藤原佐為はネットのsaiなのだと改めて思う。
師である行洋だけがsaiと対局できて、自分は対局を受けてすらもらえない。その差に嫉妬を覚えずにはいられず、自身の師であっても今だけは顔を合わせたくなかった。
けれど、行洋はそんな緒方の心情を少なからず察しているだろうに、立ち去る気配はなく、
「だが、saiが何を守ろうとしているのかくらいは、緒方君も分かるだろう?」
「え?」
「だからと安易にそれに手を出せば、saiは怒るだろうからオススメはしないがね」
千年の時をかけ育てたヒカルに良からぬ手を出せば、佐為は烈火のごとく怒るだろう。
その光景を想像してしまい行洋は苦笑し肩を竦めた。
「私からは何も言えないし、どう動くこともできない。初めて対局した時、私は引退を賭け、saiは負ければ素性を明かすことが対局条件だった」
「会ったこともない相手に引退を賭けて対局したのですか?」
「だからこそだ。素性が知れずネット碁に隠れて打つだけの相手に、自分は決して負けないと思った。そしてプロ引退を賭けたからには、必ず勝って素性を明かさせるつもりだった」
淡々と行洋は当時のことを思いだすように話すが、実際いきなり行洋が4冠というタイトルを持った状態で引退した時は囲碁界全体に激震が走ったのだ。
関係者や親しい者は行洋の引退を引き留めようとしたし、棋戦のスポンサーからは棋院に何度も電話があり、直接経緯や今後のことを確認しにくる会社もあった。
それが公式戦ですらないネット碁で行われた一局が原因だと本人の口から聞かされて驚かないという方が無理だろう。
実際、噂は緒方も耳にしていた。行洋が引退したのがネット碁でアマに負けたからではないのか?と根も葉もない噂が流れたのは知っている。
しかし行洋とsaiの対局内容は紛れもない名局で、負けた一局だとしても決して恥じるような内容ではなく、ましてやそれが原因で引退するとは到底考えられなかった為気に流していた。
しかし本人の口から真相を聞かされ、しかも行洋は口約束を実行し、プロを引退した。素性を明かせばいいだけのsaiと違い、行洋は失うものが大きすぎる。
(ネット碁の対局で本当に引退するなんて………)
逆に考えれば、それだけの覚悟があったからこそあれだけの名局が生まれたのかもしれない。観戦していただけの自分ですら、常に画面から目が離せず気持ちが高揚し、終局してからも行洋に逆転の一手がないか探し続けた。
[9]前話 [1]次 最初 最後 [5]目次 [3]栞
現在:1/4
[6]トップ/[8]マイページ
小説検索/ランキング
利用規約/FAQ/運営情報
取扱説明書/プライバシーポリシー
※下部メニューはPC版へのリンク