第零話 『 』
「すいません、出過ぎた話でしたね。でも志貴さんにはぜひ考え直して欲しかったんです。遠野の家に戻ることに不安があるみたいですけど、大丈夫ですよ。秋葉様や翡翠ちゃんもいますから。きっと八年前みたいな事故は起こりません」
黙りこんでしまっている自分に向かって、琥珀は慈しむような声で告げる。全ての心配はいらないと。この時程、自分がアイマスクをしていることに感謝することはなかっただろう。知らず、こちらの表情を誤魔化すことができるのだから。彼女はこんな物がなくとも、表情を変える必要すらないのだろう。八年の間にそれができなくなった自分が異常なのか、それができる彼女が異常なのか。それを知ることもなく
「それに有間の家にいれば安全、とは限りませんから――――」
そんな無意識にこぼれたような琥珀の言葉によって、まるで心臓を鷲掴みにされたような悪寒を覚えた。もう、逃げ場はないと。自分にそうする以外の選択肢はないと宣告されたに等しい。だが逆にそれが自分の思考をクリアにする。
――――反転する。そう、何故自分はこんなにも困惑しているのか、翻弄されているのか。
決まっている。自分がないからだ。確固たる自分がないから、こんなにも無様に為すがままにされている。中途半端に遠野志貴の殻を被っているから。中途半端に知識を持っているから。中途半端に、遠野志貴と関係がある彼女達を気遣っているから。
だからそんな物は必要ない。罪悪感も、後ろめたさも感じる必要もない。そもそもそんな物は自分にありはしない。ただ『普通の人間ならそう思うだろう』と知っているからそうしているだけ。
「――――できない。俺は、遠野の家には戻らない」
自分でも驚くほど、抑揚のない言葉が口から漏れた。戻れない、のではなく、戻らない。何かを理由にした物ではなく、間違いなく自らが選んだ選択だった。
「――――」
瞬間、初めて彼女の呼吸に変化が生じた。今まで決まったリズムで淀みなく流れていた流れが止まる。秒にも満たない差だったのかもしれないが、はっきりと自分にはそれが感じ取れた。
「志貴さん、それは」
「何度も言わせないでくれ。俺は遠野の家には戻らない。目のことも、記憶喪失のことも関係ない。俺が帰りたくないから、帰らない。それだけだ」
先程までとは逆に、琥珀に反論の間を与えることなく先を取る。論理も、理由づけも必要ない。これまでの理論武装という名の言い訳とは真逆の感情論によって彼女の誘いを断る。
有間の家が安全とは限らない。琥珀が先程口にした内容。そこに不安がなかったと言えば嘘になる。確かに、有間の家にいれば安全とは限らない。それでも、遠野の家に戻ることに比べれば雲泥の差がある。自分がいることで都古達に危険が及ぶ可能性など百も承知。そもそもそれは本物の遠野志貴であっても変わらない。だからこそ旅行という名の逃走を考えた。もし狙われたとしても、自分だけで済むように。
だから、許せなかったのはその一言。まるで、都古達を人質にとったかのようにも取れる彼女の言葉。もしかしたら、そんな意図で言った言葉ではなかったのかもしれない。もしかしたら、彼女にとっては何でもない、当たり前の言葉だったのかもしれない。それが許せなかった。そう、彼女が知識通り、八年前から――――
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