030 紙一重の交錯は更なる混沌を運ぶ
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ファビオラ・イグレシアスという少女は、南米十三家族にも数えられる大家、ラブレス家に仕える雑役女中である。ガルシアの父、つまりは先代当主が存命だった頃は、身の回りの世話から屋敷の雑事全般まで幅広く仕事をこなしていた。そんなファビオラを先代当主、ディエゴはとても好ましく思っていたし、その息子であるガルシアも頑張り屋な彼女に厚い信頼を寄せていた。
ラブレスの家に仕える女中はロベルタを筆頭に十名程居るが、そのロベルタからも彼女はよくしてもらっていた。女中の基本たる礼儀作法に始まり果ては戦闘術まで。いつでもその身を盾と、刃と出来るよう、少女はロベルタに仕込まれた。
そのおかげもあり、今では戦闘面に於いて少女の右に出るものは居ないとまで言われるようになった。当然、ロベルタはその対象には含まれないが。
しかしその事実を、ガルシアは知らない。知る必要はないとファビオラは思っていたし、ロベルタもその考えには同意していた。こんな血腥い世界、知らないに越したことはない。
ともかく、女中としてファビオラ・イグレシアスは満たされた生活を送っていた。敬愛する当主の元で、少女は何一つ不自由のない人生を歩んでいた。
だが、何も最初から全てが上手く行っていたわけではない。
元々ファビオラは貧困街の出身である。普通であれば、ラブレス家との接点など持てるはずもない。
それがどのような経緯を経て、今に至ったのか。
ファビオラは今でも決して忘れる事はない。
全ての始まりにして、それまでの生活に終わりを齎した、あの東洋人のことを。
その男との出会いは、お世辞にも良いものとは言えなかった。それも当然で、何せスリを働こうとした相手なのだ。当時のファビオラにとってその男は数あるカモのうちの一人でしかなかったし、まさか自身の未来をあっさりと変えてしまう人間だなどとは思ってもみなかったのである。
ファビオラはその日もいつものように貧困街を出て、多くの観光客で賑わうカラカスの中心部へと繰り出していた。無論、金銭をかっ攫うためだ。生き長らえる為に、手段など選んではいられない。
彼女が狙うのは現地の人間ではなく、警戒心の薄い観光客。現地の人間は貧困街の存在を知っているが故に警戒心が強く、間違っても財布をポケットや手に持ったまま移動しない。
対して、異国からやって来た人間はどこまでも無防備で無警戒だった。金目のものを盗ってくださいと言わんばかりにぶら下げている。
あの男もそうだった。財布を無造作にポケットに突っ込み、他の観光客と同じように周りを見渡しながらゆっくりと歩いていたのだ。
今にして思えば、それらの動作全てが偽りであったのだと気付くことが出来たかもしれない。
只の観光客がスペイン語を流暢に話し、貧困街なんて単語を口にするだろうか。
周囲を見回してゆっくり歩いていたのは、一般の観光客に違和感なく溶け込みながら警戒を続けていたからではないのか。
あの時はそこまで冷静な分析が出来るような精神状態ではなかった、と言い訳の一つもしたくなる。何せいつものように擦れ違いざまに財布を抜き取ろうとして、その瞬間に腕を掴まれたのだから。異国の人間でそんなことをされたのは初めてだった。警戒の強い現地の人間であれば貧困街の人間を見るだけで猜疑の目を向けてくるが、財布を抜き取ろうとする瞬間までその男からは一切警戒の色が見えなかった。
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