十五章 東郷重位への教授
一夜明けた七月十四日、午後。
島津兵の夜襲から命からがら逃げ果せた相良義陽は手兵を従えて休息を取っていた。
帰巣本能からか、無意識の内に人吉城方面へ馬足を向けていたらしい。伊東義祐と咄嗟に行った軍議にて、伊東勢と相良勢はそれぞれ別々に分かれて退却したからというのも理由の一つに挙げられるだろう。
兎にも角にも一命を得た。
しかし油断は出来なかった。
事実、少しの物音にも過敏に反応してしまう。
朝日が顔を出しても人心地付けない相良義陽だったが、時間が経過するに連れて事態は好転していった。
一人、また一人と旗本が馳せ参じたのである。
乾いた喉を潤す為に水を呷る。本陣周辺を1000に近い兵士で固めた。そして、漸く相良義陽は落ち着いて昨夜の事を振り返れるようになった。
余りにも、的確な隙を突いた夜襲だった。
あの時、島津兵から攻められる事はないと高をくくっていた。絶対的優位にあるのは我らだと、戦局を変えられるのは我らだという油断に付け込まれたと言っても過言ではない。
故に本陣まで斬り込まれた挙句、寡兵の敵に退却せざるを得ない甚大な被害を負ってしまった。弁解の余地などない。島津義久が一枚上手だったと認めよう。
ーーいや、待て。
相良義陽は矛盾点を見つけた。
まさか、と頭を振る。
我々は最初から誑かされていたのだろうか。
「殿、どうなされましたか?」
家臣の一人、赤池長任が心配そうに尋ねる。
大事ないと手を振って答える。
だが、生まれてしまった疑惑は急速に拡大していった。埒が開かない。正誤を判断する為にも、相良義陽は先ず情報を整理することから始めた。
「赤池、加久藤城に布陣していたのは誰じゃ?」
「突然何を仰られまするか、殿」
言外に気が触れたかと絶望する赤池長任。
人間五十年の戦国時代。三十後半なら確かに年寄りとして分類されるのかもしれないが、それでも家臣から気が触れたと勘違いされるのは嬉しくない事であった。
相良義陽は扇子で赤池長任の頭を叩く。
「いいから答えよ」
「島津家の次期当主である島津義久で御座りまする。我らとて何度も煮え湯を飲まされたではありませぬか」
「であるか。島津義久は女子であったな?」
「ええ。島津四姉妹の長女であらせられますからな。三洲一の美女という噂ですぞ」
「それはどうでも良い。赤池、お主は加久藤城にて女子を見たか?」
島津義久は籠城が始まる前に、大量の兵糧と近隣の住民を加久藤城へ避難させたと言う。
人質として扱われるのを防ぐ為。利敵行為をさせない為。様々な理由はあれど少なくない女子が加久藤城には存在していただろう。実際に見た。
だが、問題はそこではない。
「え?」
小首を傾げた赤池長任に向かって吐き捨てた。
「軍配を振るう女子を見たかと聞いておる。儂は見とらんぞ。空城計に気付かず、二の丸にまで攻め込んだ時も軍配を持っていたのは十七そこらの若造じゃったな」
敵ながら見事な指揮だった。
幾多にも乱立している馬立に、的確に狙ってくる練度の高い鉄砲隊。此方の浮き足立つ瞬間を決して見逃さずに采配を執る若い武将、そして彼の巧みな指揮に応えようとする精強な島津兵。数では圧倒しているのに押し切られてしまった苦い思い出である。
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