第8話 俺には分かる。弟は死ぬ気だ。
目の前の景色がゆっくりと変わる中で、幾多の戦場を潜り抜けてきた老人は経験則から理解した。目の前に立つ鬼と見間違うかのごとき覇気を発する満身創痍の赤備えの武者。その男の持つ短銃によって自分が撃たれたのだと。
老人はその男の名を知っている。
かつて徳川の大軍勢を二度にわたって退けるも、幕府から危険視されて紀州九度山へ配流され、そこで無念の死を遂げた名将真田安房守昌幸の二男にして先年の合戦では大坂城の南側に砦を築城して攻め入った幕府諸藩の軍勢に大打撃を与えて撃退した戦巧者。名を、真田左衛門佐信繁。
が、老人は真田左衛門佐の素性と実績を鑑みてなお、脅威にあらずと考えていた。
なるほど、名将として世に名高い父の薫陶を受け、それを活かせるだけの才があることは確かだろう。大坂城の弱所を補う砦を任されていることからも分かるように、豊臣家ではそれなりの信頼を得ている。間者の報告によると、指揮する軍勢も忠勇溢れる精強な軍勢とのこと。
もしもこの男が一五年前――天下分け目の関ケ原よりも前に頭角を現していたのならば、あるいは同等の才覚が豊臣家の後継者にあったのならば危険視するに足りえただろうが、こと現状に至ってはこの男の才覚で大局は変わらない。
関ケ原の合戦以降実質的な天下を得た徳川家は、豊臣家以外の大名についてはほぼ統制することに成功していた。徳川の版図の拡大に大きく貢献した功臣の多くが鬼籍に入り全体的な人材の質は全盛期ほどではないというものの、天下を差配するだけに十分な文官、武官がそろっている。
この日ノ本で唯一徳川家の天下を認めていない豊臣家は、その一方で弱体化が甚だしかった。元々、豊臣家は太閤秀吉という一代の英傑ありきの組織だ。一門衆や譜代の家臣は乏しく、関ケ原の戦い以後はその数少ない譜代の家臣すら豊臣家の下から離れていった。
豊臣家にあるものといえば、太閤秀吉が残した莫大な金銀と天下の名城大坂城くらいなものであった。しかし、その莫大な金銀と大坂城の守りも先年の戦いの末に失われている。
両者の差はもはや埋めようのないほどに拡大しており、故に徳川の勝利は揺るぎないと老人はこれまで信じてきた。越前勢が総崩れになったと報告を受けた時も、裏崩れが起きる様子を見ていてもなお、多少被害が大きくなることは予想するも勝利は揺るぎないと信じていた。
ああ、これが日ノ本で最後の大戦。忌々しい豊臣の滅びを見届けられる喜びと、戦国の世に幕を下ろす役割を担うのが己が全てを捧げたあのお方でないという哀しさ。
その相反する感情に乱されていた最中に、衝撃が老人の背を大地に叩きつけたのだ。
まだ、死ぬわけにはいかない。あのお方の復活を見届けるまでは――
老人は何が起こったのか理解すると同時に、見えない拳によって殴られたような衝撃を受けた胸に手をやる。
撃たれたのなら、すぐに治療を施さねばならない。何処に命中したのか、傷の深さは、弾は貫通したのか。撃たれた箇所に手を当てたのは、次に自分が何をすべきか理解するための無意識の行動だった。
手は湿り気を感じないし、服も赤に染まっていない。血の代わりに、老人の手に触れたものは、肉のものではない感触だった。
常に胸元に入れて携帯していたそれの存在を思い出した老人は、自分の目で確認するべく手に触れたそれを取り出した。何故、血の感触がしないのか。火縄銃に撃たれたにも関わらず、焼けるような鋭い痛みがなく、殴られたかのような鈍い衝撃だけがあるのは何故か。この時点で老人はその答えを半ば理解していた。それでも、確認せずにはいられない。
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