第十三話:もしも奴ならば
杏寿郎が湯治場を離れる前日の夜。
夢乃もまた暗がりにまみれて町から離れた。
向かう先は東京府、日本橋。
百年を生きた夢乃は、まさにこの国の発展を実感している。
(私が人であった頃は、夜になれば野外を歩く者などいなかったのに)
だが今はどうだ?
田舎の村や小さな町ではまだ電線の整備が出来ていない所も多々ある。
しかし日本橋や浅草、東京府の中心部は夜になろうと明々と光が灯っていた。
鬼は陽の日差しを浴びることで体が焼け死に至るが、蝋燭の火や蛍光灯の光はなんともない。
「さて、呉服屋は……」
結局なんだかんだと落した刀が気になって、呉服屋に行く心の余裕がなかったのだ。
それが手元に戻ってきたことで安堵し、ようやく町に出てくることが出来た。
用事はそれだけではない。
今日は珠世の下を訪れ、血液の検査をすることになっていた。
手近な呉服屋を見つけては店内へと入り、採寸をして着物と袴を頼んで店を出た。
もちろん、女物の着物ではなく男が着るそれを依頼してある。
店の者は不思議そうな目で夢乃を見たが、これも仕事なので文句の一つも言うことはない。
店を出てからは町の中をただぶらぶらと歩くだけ。
夜でありながら明るく照らされた通りには、未だ人で賑わっている。
その中を夢乃は、ただの一度も人とぶつかることなく歩みを進める。
やがて塀の上に猫の姿を見つけると角を曲がって路地を進む。
懐に手を伸ばし、そこから折りたたんだ紙を取り出した。その紙を額に当てると、夢乃の姿はすぅっと消える。
消えはしたが、彼女は猫の姿を追って歩き続けていた。
猫は一軒の家屋へと入ると、僅かに塀のきしむ音がした。
その音が合図だったかのように、戸口が開かれる。
中から出てきたのは白い肌の少年──愈史郎だった。
「遅かったな」
愈史郎がそう言うと、夢乃は額に当てた紙を外して姿を現す。
珠世と愈史郎が暮らす場所は時代と共に転々とするが、常に鬼に見つからぬよう結界が張られている。
簡単には見つからない場所だ。
それは夢乃にしても発見できないので、こうして愈史郎の目を与えられた動物が案内してくれるのだ。
更には追跡されないよう、夢乃自身も愈史郎の作った紙を額に当てて姿を隠して移動をする。
「すまない。呉服屋に寄っていたから」
愈史郎は首を傾げる。見た所彼女の着物に破れたようなあとはない。
「もう何十年も着ているのだ。そろそろ着替えたっていいだろう」
「なるほど。なら今度はもう少し今風にするといいんじゃないか」
「今風……今風ね」
そんな会話と共に二人は家の中へと入っていく。
中では珠世が検査の準備をしていた。
「こんばんは、珠世さん」
「こんばんは、夢乃さん。呉服屋さんへ行ったのですってね」
どうやら愈史郎との会話がここまで聞こえていたようだ。
夢乃は躊躇いながら、珠世に「今風とはどんな?」と尋ねた。
その問いに珠世も眉尻を下げ、困ったような表情になる。
(思った通りだ! 夢乃はきっと珠世様に尋ねると思ったんだ。あぁ、困っている珠世様も美しい)
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