願い事
胡蝶カナエは蝶屋敷の自分の部屋にて、書類を書いていた。まだ朝の早い時間だ。
「……」
仕事に集中できない。
頭に浮かぶのは、数日前の散歩で見た光景だ。
「――ユウ、さん」
小さく呟く。
あの人が、笑った。
カナエの前で、心から笑っていた。
「……ふ、ふぅぅ……ぅっ」
机に突っ伏して、奇妙な呻き声をあげる。口元が緩んでいくのを止められない。顔が熱い。
あの散歩の日から、ずっとこんな調子だ。気がつくと、あの笑顔を思い出して、しょっちゅう身悶えしている。
いけない。こんなことでは、しのぶや他の子達からまた呆れられてしまう。最近は滅多に感情を表に出さないカナヲまで、カナエの様子に引いている表情を見せていた。
これでは蝶屋敷の主人として示しがつかない。いい加減にしなければ。
その時、しのぶが入ってきた。顔色が青くなっている。
「姉さん…」
「しのぶ?どうしたの?」
カナエが不思議そうに問いかけると、しのぶが震える声で答えた。
「煉獄さんが――」
◇◇◇
後藤は必死の形相で走っていた。動揺した様子でバタバタと隠の仕事部屋に入る。そこでは、結火が一人で書類を書いていた。結火に向かって叫ぶように声をかける。
「結火様!炎柱様が……っ」
「はい。聞いております」
結火は素っ気なく答えた。少しも動揺した様子を見せない。後藤に視線も向けず淡々と筆を動かし、書類仕事をしていた。
「き、聞いたって……」
「上弦の鬼と戦い、殉職したそうで」
結火が平然と頷き、後藤は呆然と口を開いた。
「ゆ、結火様」
「なんでしょうか、後藤さん」
「だ、大丈夫、ですか……?」
その問いかけに、結火はようやく書類から顔を上げて、後藤と目を合わせた。その目からは何の感情も見いだせない。いつもの落ち着いて冷静な彼女だった。しっかりと頷き、短く返答する。
「はい」
「……」
後藤は口をつぐむ。
「……」
「……」
お互いに黙り込む。重い沈黙が仕事部屋を満たした。
しかし、すぐに結火は口を開いた。
「後藤さん」
「……はい」
「今日の現場は、北西にある山です」
「……へ?」
「少し遠方ですし、山なので、早めに出た方がよろしいですね。天気も悪そうなので、剣士の方が現地に来る前に、我々も――」
冷静にその日の仕事内容を話す結火に、後藤は声をあげた。
「結火様!それどころじゃないでしょう!炎柱様が……っ」
「はい。ですから、殉職しました」
また頷いて、答える。
「ゆ、結火様、仕事どころでは――」
「大変、残念に思っております。弟が亡くなったことも、上弦の鬼を倒せなかったことも」
「……」
「それはともかく、仕事をしましょう、後藤さん。そろそろ出ないと、任務に間に合わなくなります」
「そ、それはともかくって……」
「――後藤さん」
結火は静かに後藤を見返した。
「……鬼は待ってくれません」
「……」
「弟のことは、悲しいです。胸も痛みます。ですが、哀悼の意を捧げる時間は、最小限にするべきです。また、夜になれば、鬼は人を襲います。今、私ができることは、ただ一つ、――弟の分まで鬼殺隊で働くことです。鬼を滅するために」
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