ハーメルン
牢獄の暗殺者
第十二話:黒羽

 真円の月が上る夜闇の空、猖獗極まるスラムの最奥にて黒く歪な影が蠢いていた。堰きつくような呻き声と、血痰でも吐いているかのような音。苦しみ身悶える者が、老朽化と相次ぐ地震の被害によって半壊した家屋内にいた。
 片方の足首を失ったその者は、しかし気にした様子もなく先の無い足首を立てて蹲っている。例え足が無くなろうと、長さはそれほど変わらないのだから問題ない。まるでそんな無茶な考えを持っているかのように、傷口から流れる鮮血を顧みる事もない。
 この身は既にヒトに非ず。故にこの程度の傷に苛まれる身ではない。なのに彼は息も絶え絶えに口腔から胃液を流して、四肢を痙攣させている。これはいったいどういう事なのだろうか。必殺を誇る両腕に籠る力は愚か、立って歩くのさえ不便するこの身体はどうしてしまったのだ。その上、鼻腔を衝く刺激臭まで立ちこめている。洗い流そうとしても、血で流そうとしても落ちない。
 脳裏に過ぎるのは一人の男。あの漆黒の外套を身に纏い、恐るべき俊敏性と隠密性を兼ね備えた暗殺者のような男。我が豪腕の悉くを躱しきり、その身に苦痛を刻み込めたのはたったの一度のみ。どす黒い情念に塗りつぶされた己を恐れることなく果敢に殺そうとしてきたあの男は、いまどうしているだろうか。靄のかかった記憶が定かであるなら、彼の左腕は間違いなくこの手で壊した。であるなら、再戦は叶わぬだろう。例え挑んでこようとも、互いに負傷した身。衝突の後に待っているのは醜い泥仕合しかありえない。
 体内を駆け巡る血液と体組織が食い破られるような激痛に、背中から生える大翼が過剰反応し大気を叩く。男の身体を、えも言えぬ違和感が残り続ける。

「――フィ、お……ガ……ァ、ネ……――」

 弱り切った身体の内側を何かが食い破るような幻覚が迸り、脳細胞の働きが徐々に弱まっていく。――おかげで、男は一時的に深淵の深き底に沈む記憶の箱が開かれた。
 こうしてバケモノになる前の自分は、間違いなく人間であったと断言できる。そして、毎夜繰り返される殺人は望んだものではない、とも。全てはこの頭の中から鐘のように鳴り響き急くような声が、体を支配しているという事。
“――殺せ”
 思えばそれは悪魔の囁きなのかもしれない。己と寸分違わぬ声音でありながら、命ずる言葉は己が決して実行しない忌むべき行為だ。
“――血を浴びろ”
 粘性の泥のような意識が自我を塗りつぶさんと溢れ出るが、体がいう事を利かないのが幸いし、殺人衝動に駆られながらも動く事は叶わない。体内の血管を一本一本丁寧に引き抜かれるような痛みと寒気がするが、それでも男はヒトを殺さずに済んでいるのを安堵していた。
 そうだ、これ以上罪を重ねてはいけない。ヒトを殺す為にこんな場所まで逃げ延びた訳じゃない。自分には伝えなくてはならないことがあるのだ。なぜこのような体になってしまったのか、それにまつわる真実を……
 辻褄を失った記憶が蘇り、ある夜の街路の光景を映し出す。眼前に映る流麗な髪を伸ばした少女の後ろ姿。その頭部を、他でもないこの腕で刈り取ろうとしてしまった。運よく最悪の事態にならなかったが、こっちを見るその毅然としながら使命に燃える瞳が、彼にはとても痛ましかった。その信念を捧げる旗は、彼女が崇拝するには値しないハリボテなのだと、理解してしまったから。伝えなくてはいけない、彼女にこの真実を。この身体を。――己が何者であるのかをあの幼かった妹に。
 唐突に喉元が熱くなり何かがこみ上げる。

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