ハーメルン
牢獄の暗殺者
外伝:アイリスの日常

 アイリスの一日は観察に始まる。
 朝を告げるノーヴァス・アイテルの鐘が鳴り響く音で目覚め、ゆっくりと体を起こし小さな口を開けて欠伸を漏らす。長年夜の仕事をしていたせいか未だに朝には慣れない。夜型だった体内時計はそう簡単には修正出来ず、このまま起こした身体を再び布団へと預けたくなる欲求もある。
 しかしアイリスにはやることがある。
 強制される毎日だった生活は終わったが、だからこそ自発的に決めた事は守ろうという決心が彼女を睡魔の誘いから遠ざける。自由意思に基づいた日課は自身の主の寝姿を観察することから始まる。
 アイリスが惜しみながら押しのけた睡眠を隣で貪るアウルムの寝姿は、実際の年齢よりも幼い印象を懐く。決して彼が子供っぽいという事を言いたいのではない――言葉にはしないが否定しない――が、それにしても曇りの無い寝顔をしている。警戒の色など微塵も感じられない弛緩したそれは、しかし微笑ましく思えど腕に巻かれた白い包帯によって現実に引き戻される。

「……いたそう」

 仕事で油断し負った怪我。折った腕は未だに回復の兆候が見られない。
 どのような仕事で負傷したのか、初めて見たときに驚愕したアイリスは即座に問い詰めたが明確な答えが帰ってくることは無かった。いつものように何でもないような顔で煙に巻かれる。そのことには不満などない。彼に詰問した所で素直な返事がもらえると考えるほど、彼女は楽観的な思考回路をしていないのだから。
 牢獄ではこの程度の怪我は珍しくない。むしろごくありふれた日常と言っても過言ではない。躊躇いなく生きるために暴力を行使する者たちが跋扈するこの地区での骨折など、親が同情を引く為に子供に負わせる怪我の最たるものだ。
 痛々しい姿の子供を、牢獄の実情をあまり知らぬ下層民などの前に放ち同情を引かせ、その善意に付け込む。力と権力と金が全ての世界で、なにも持たない子供とはそういった役割に使う以外に生かす価値もないのだ。自身の食い扶持すらまともに得られず親に寄生しなくては生きられない子供は、命を繋ぐ対価に痛みの甘受と在りもしない親の愛情を盲信するしかない。荷物でしかない子供は、そうやって歪みを抱えたまま育ち、ますます牢獄民の倫理観はねじれてゆく。
 添え木と一緒に包帯で巻かれている腕を一撫でし、アイリスは寝室を後にした。
 骨折をしてから夜明けの鐘が七つ鳴った。アウルムの担当医を渋々請けているエリスは彼の怪我の完治には時間を要すると聞いている。ならばまだあの真白い包帯が汚れで黒ずむまでは解かれることはない筈。本人が言うには二週間もすれば治ると豪語していたが、どうにも信じられない。
 居間の一角にあるキッチンへと立ち、朝食を作る為に調理道具を並べていると、もはや日課になりつつあるドアを叩く音が聞こえてきた。来客の性格をあらわすような控えめな、未だ眠る家主を起こすまいという気遣いが感じられるノックがされ、アイリスは冷たい廊下を通り玄関先へと迎えにいった。

「おはようございますアイリスちゃん」
「おはようティア」

 扉の向こう側に立つティアは朝日を背にしながら、負けないぐらいの明るい笑顔で挨拶をした。

「ちょうど準備が終わった所、良いタイミング」
「わわっ、それじゃあもう少し早く来た方が良かったですね」
「なぜ?」
「だって、ちょっとでも遅れたら、遅刻になってしまいます」

 タイミングの良さを褒めたつもりだったが、彼女にしてみればそれは皮肉に聞こえたらしく、申し訳なさそうに目を伏せてしまった。

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