第十四話:奪われし片翼
グレン・ハワードはしがないクスリの売人である。
性格は典型的な牢獄民と同様、他者を陥れる事になんの呵責も懐かない、冷酷とは違う現実的な思考回路をしている。
収入は不安定で先の見えないその日暮らし。通常、一パック銀貨二枚と割高ではあるクスリを買う中毒者を相手に収入を得、貯まった金を持って娼館へと通う毎日。自分が売ったクスリで誰かが破滅の道を加速させようと、グレンには気にならなかった。
顧客は飯の種であって、他人である。彼らを相手にクスリを渡す度に「これは体を壊すから絶対に摂取しないように」などと忠告する大間抜けが何処にいようか。握りしめた金さえもらえればグレンはそれで良かった。――だから風錆という組織からの誘いがあった時も、稼ぎが増えると単純に喜びしかしなかった。
牢獄を二分する組織の片割れ、片や牢獄が生まれたときから存在している《不蝕金鎖》
もう一方は不蝕金鎖より分かたれた《風錆》
その風錆に入れるのだ、彼の生活は安定したも同然だった。
――故に。
※
アイリスには少し出かけてくると、それと今夜はカイムの家に泊まれと簡潔かつ簡素な声音で告げ、答えも聞かずに家を出た。
巻き込みたくはなかった。いつかこんな日が来るのではと危惧していた事が、ついに魔手となりて首を絞めようと背後から迫ることは覚悟していた。初めて人を殺したときから予見していた。
ガウに根城を知られたということはつまり――文にも書かれていたとおり、まさしく“そのとおり”なのだ。
直接自宅の玄関先に射られた矢文。それは彼女がいつでも訪れる事が出来るという証左であり、同時にアイリスの命を握ったも同然なのだ。当然アウルムにとってアイリスは掛け替えのない存在だ。よって彼女の安全を生贄に捧げることなんて、再び大崩落が起きようとも出来ない、出来るわけがない。だがその反面で、これは当たり前に訪れる“あるがままの摂理”なのでは、と己の中に潜む何かが説得するように呼びかける声が聞こえる。
だってそうだろう。どこまでいってもアウルム・アーラは暗殺者だ。人の四肢を斬り、絶望と恐怖に彩られた今際の顔を睥睨しながら首を落とす。そういった外道の愚物、葡萄酒の底に沈殿した澱のような人間だ。憎まれて当然、恨まれより卑劣な意趣返しをされるのはむしろ当たり前の帰結。壁に投げた石が跳ね返って来ただけの事。
あるがままを受け入れるアウルムは、これもまた受け入れるしかない。条件反射のように、脊髄反射のようにある条件下で唾液を分泌する犬のように受け入れてしまう。
月明かりが翳る朧夜の下を全速力でひた走ること数分、いつしかアウルムを取り巻いていた景色はがらりと毛色を変えて、牢獄の中でも特に人の営みが感じられない廃墟群の一帯へと足を踏み入れていた。
朽ち果て打ち捨てられた建物の隙間を通る夜風の嘶き。それはまるで失われた過去の栄華を悼む亡霊たちの哭き声にも聞こえる。
悲劇があった。覆す事の出来ない嘆きがあった。
不退転の精神を持つお伽噺の勇者がその場に在ろうと救えぬ現実という暗い影。現象として起きた大崩落の跡地は生命の息吹が絶え、芽吹く可能性すら底の見通せぬ奈落の混沌へと引きずり落とされてしまった。
朽ちた瓦礫を踏み砕き足を止める。聴覚や嗅覚、そして視覚を鋭敏にさせ自分以外の人間の気配を探るが、それらしい反応は感じられない。ガウ程の実力者にして狂人であればその気配を見落とすことなどまずありえない。なのにアウルムの知覚できる範囲には彼女の一端すら察知する事が出来なかった。
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