第十六話:古井戸に沈む
エリス・フローラリアにとってのカイム・アストレアとはどういった人物なのか。率直に言い表して“光”と迷うことなく彼女は抑揚のない、されど執着心が滲み出た声で答えるだろう。
身請けをされてから七年余り、それ以前の人生は表舞台に立たぬ傀儡のようであった。外に出る事は無く、不足なき小さな子供部屋で毎日を過ごすだけの人生。両親に生き方の全て、その一挙手一投足に至るまでを命令され続けた彼女の心は無風の草原の様で、まるで揺らめかない凪にも勝るとも劣らない。感情の無い操り人形。
だから操り糸を所有していた家族が死んで牢獄の娼館に売られた時も、然程心が揺れる事もなかった。もとよりその術を知らないのだから、哀しみも恐怖も希望も、何も人間らしい感慨など湧かず命令されるがままに娼婦となった。
隣人が悲愴に顔を覆い滂沱の涙が床を濡らす様を見ても、例えそれが周囲にも伝播し嗚咽が合唱しようとも、エリスが影響を受けることはない。
何故そんなにも涙を流すのだろう――不可解なままのエリスに、その手は唐突に差し伸べられた。
「今日からこのカイムが、お前の主だ」
目の前に立つ憐憫にも似た冷たい眼差しを向ける男が主人だと言われた時も、エリスの心が波風を起こすことは無かった。ただ、命令する主人が変わっただけ……それなのに。
新しい主人はエリスに繋がれた糸を切り落とす。それが無ければ一人で立つことさえ叶わぬと言うのに、彼はそんなことも顧みることなくエリスに矛盾を強要する。
「自分で考えろ、いちいち俺に訊くな」
考えろと、あくまでも己の意思に基づいて行動しろと突き放される。そんな風に自分は出来ていないのに、どうしてそんな事を言うのか分からない。人形に自立なんて命令は無意味で不可能。見当違いも甚だしいのに。
わからない――その困惑はエリスを次第に蝕み、変化させていく。
※
リリウム唯一つの私室は、灰皿に火の点いたままの葉巻から濛々と立ち昇る紫煙によって、室内全体が白んでいる。唯一の窓も万が一の暗殺を警戒してか閉め切られたままな為、充満する紫煙は滞留したまま火元から質量を増やし続けている。
このまま換気をしなければ燻製になるかもしれない。下唇が上唇を持ち上げ難しい面持ちでそんな他愛ない事を考えながら、ジークは火種が消えそうになる葉巻を見下ろす。音も無く消えようとする火種は、己の状況に近似している。このままなんの行動も起こさなければ、間違いなく不蝕金鎖は風錆の武力と財力によって呑み込まれるのは必至。この葉巻同様、消える前に吸わなければ火は消えてしまう。
ティアとアイリスを攫われ、その上お粗末な言いがかりで宣戦布告してきたベルナドの勝利を約束されたような顔が蘇る。今になって思い返すと、あるいはあの杜撰な行動すら彼の想定した未来への布石なのではないか? 長考のあまり本筋を見失い掛けたジークは、一端切り替えるべく目を閉じ皺の寄った眉間を揉む。
「で、これからどうするつもりなんだ?」
長い自問を繰り返していたジークの目を覚ましたのは、ソファーに浅く座るカイムだった。
「二人が風錆の手の内にある以上、俺とアウルは大立ち回りは出来ない。仮に闇に紛れてベルナド自体を殺ったとしても、人質が同じ場所に囚われてる保証も無い。意趣返しに犯されて殺されるのは目に見えてる」
「わかってる。お前の言う事は最もだが、時間はまだ残ってる」
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