夏秋表
夏に――ウチはふたつのさびしい虫のいのちと交感を持った。
「蝉さん、つかまえた」
「ほう、やるやん」
そのウチのひとつは、観鈴がその手に抱きかかえている蝉だった。
虫かごや虫取り網を買った覚えは無い。
ねだられた事も、押入れにしまってあった事もないはずだ。つまり、手づかみで捕獲したということ。
何の障害も無い、アスファルトで舗装された道を、ただ走っただけで転ぶ。
まるで風切り羽を奪われた、飛べない鳥のように。
恐ろしいまでに運動感覚の無い――とろい、この子が手掴みで素早しっこい蝉を捕まえたのは感嘆していい事だろう。
「地面に落ちてたの」
「むっちゃ死にかけやないか」
やっぱ、あかん。
ウチは心でそう一言呟いた後、またうちわで自分の顔へと風を送る作業を開始した。
「死にかけ?」
「……まー、もうすぐ死ぬやろなあ」
「が、がお……」
白い、子供用のワンピースに身を包んだ観鈴は、涙目になって蝉を見る。
じぃじぃ、と蝉が答えて鳴いた。
蝉の種類はなんだったか――あまり興味がないので、まあいい。
ともあれ、ウチは冷たく突き放した。
「捨ててきい」
「……」
観鈴はじい、と悲しそうに蝉を見る。
だが、見たところで助かるわけでもなく。
さっさと捨てさせるのが、観鈴を悲しませないためには好ましい判断といえた。
たとえ嘘を吐いても。
「――どこぞの木にかけてやり。ひょっとしたら、生き返るかも知らん」
無理だろうが。
夕飯の頃まで生きながら得てくれれば、それでいい。
そうすれば、あの子は悲しまずにすむはずだ。
ウチは、庭から玄関を出て――防波堤の並木道に走っていく観鈴の姿を見送った。
微かに、観鈴が泣かない事を祈りながら。
そう、ウチは祈る事以外には許されていなかった。
蝉の結末は知らない。
あの夏は、いつの夏だったか。
それはとても古い思い出で――子供の観鈴はまだ手がかかり、少しはあの子に優しく出来た頃の夏。
ウチは、あの寂しい命との出遭いを終えた。
もうひとつは、また別の夏だった。
――あの時、蝉を大事そうに手で抱きかかえ、ウチの目の前に運んできた。
あの子が、優しいウチの娘が、いなくなってしまった夏だった。
あの頃の記憶は曖昧だ。
朝、死んだように目覚め、夕、死んだように海や防波堤をぶらつき、夜、死んだように眠る。
おそらく、今は辞めた仕事先から、または敬介から、毎日のように電話がかかってきていたはずだが。
どうでもよかった。
実際、何かの拍子があれば、死んでもかまわない、と考えて過ごしていた頃。
夏の終わりか――ひょっとして、もう秋だったのかもしれない。
確かなのは、あの日、ウチの中での夏が終わったということだ。
ウチはその日、もうひとつの寂しい命に出会った。
昼を過ぎた頃。
ウチが、いつものように防波堤へと歩いていく最中。
道端に、蝉が転がっていた。
感傷の小曲をうたいあげる夏蝉は、すでに数を減らしている。もはやウチの庭にて鳴く声は聞こえない。
その蝉も、やはり夏の終わりを告げるように地面へと這い蹲っている。
寿命か、餌を欠いたのか。
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